飲み込む泥、抱擁する音楽
なぜ音楽をやっているのか。
これは延々と自分自身に向け続けている問い。
意識するしないに関わらず、人は自分の人間観や世界観をベースに物を考え、行動し、問いに答える。
その行動や答えによって世界観や人間観も変わり、行動や答えも変わる。人の生き方や行動・発言や表現は、その人の世界観と人間観に基づいている。僕が文を書いているのも、そんな自分の物の見方を確かめるためであったり、世界観や人間観を更新するためだったりする。
「なぜ音楽をやっているのだろう?」という問いによって、「僕は世界や人をどんな風に見ているのだろう?」と考えずにはいられなくなった。
世界は大きな混乱と変化の中にある。これからは経済や社会の破綻もやってくる。地球そのものの混乱と激変も。そう遠くない未来に。
パンデミックと戦争はもう起きている。
静かな変化も、暴力的な変化も起きているし、まだまだ起き続けるだろう。僕らは次の世界に向かっている。次があれば、だが。
人間の度し難さへの怒りと諦めは日々膨らむ一方。僕は世界や人間を絶望的に見ている。このままではもう無理だと思っている。激しい怒りをもって世界に絶望しながら、人間への吐き気を感じながら、じっと見つめている。絶望や諦めに流されて冷笑的に生きたり、投げやりに生きたりするのは拒否する。シニカルな態度で動じないふりをするのも嫌だ。僕はとても絶望しているが、それでも全力で生きていたいと思っている。いつか人の尊厳をもっと大切にできる世の中になっていくのでは、という希望も少しだけもっている。ジタバタともがいて最後まで生きていたいと思っている。奴隷のようにただ生かされているのではなく、尊厳と人への敬意をもって生きていたい。それを失うなら、生きていても意味はない。最後まで抵抗したい。闘っていたい。何と?
黒く、大きく、重く、ネバネバしていて、ゆっくりと全てを飲み込んでいく、僕らの愚かさや身勝手さが生み出した「泥」と。
音楽に戻ろう。
僕は自分がこれほど絶望していて、嫌気が差しているこの世界にあっても、音楽を聴き、作り、演奏することが喜びであることは何も変わらない。世界や人間の状況はどんどん悪くなっていても、僕が音楽を求め、音楽がどんな時も至福の時をもたらすことは何も変わらない。音楽がもたらす高揚と興奮と喜びは、不思議なくらい何も変わらない。ますますクリアに、鮮明になっていく。本当に不思議なことだけど。それはただ音楽を酒や麻薬のようにしてそこに溺れて、現実の嫌なことを忘れているだけではないのか?と疑ったこともあるが、そうではない。
音楽に浸っている時も、世界と人間への絶望が消えることはない。
何も忘れさせてもくれない。
音楽は世界を変えるわけでもないし、環境を浄化するわけでもない。
混乱する世界や人間の愚かさは人間が責任を取るべきことなので、音楽がそんなことをする必要はない。
音楽は世界や人間の度し難さなどとは無関係に、どんな時も圧倒的なものとして存在している。
なぜ音楽をやっているのか。
世界や人間への絶望感が極まっていくにつれ、それすらも全て包み込む音楽の深さと巨大さを僕は必要としているからかもしれない。
尊厳や敬意を忘れないで、「泥」に飲み込まれず生きるために、正気でいるために、音楽は必要なのだ。
長々と堅苦しく考えて語っているが、今はそれが必要だ。
ノリと勢いで何も考えずに行くことも時には必要だが、堅苦しく面倒臭く考えすぎるくらい考える時も必要だ。何でも簡単にしないほうがいい。何でもわかりやすくしないほうがいい。それは不自然なことだ。
難しくわかりにくいものが一切ないのは、とても歪んでいる。
そんな場所には必ず嘘がある。
日々巨大なうねりに翻弄されているが、それでも流されないために、飲み込まれないために、音楽を大切にしたい。
(2022.3.12)
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