月鏡譚。

ようやく明かりが灯る頃になって、目覚める。どこかから手が伸びて来て、短い前髪をさらら撫ぜた。私は白い服を取り出して腕を通し、胸を隠し、脇腹を納め、右足と左足とを並べてどちらにも同じ長さの筒を通す。いいかい。これから上手に歩くんだよ、と言えば、十ある指のうちの二つくらいがこくんと肯く。あとは知らん振り。床に落ちたスリッパを足でかき寄せる。

今日一日、きれいに風に飛んでいた洗濯物をベランダで迎える。おかえり。そう言って、頬に抱き寄せれば仄かなぬくもりがして、それは太陽と言うよりはすでに僅かに冷えて人肌ほどになっている。洗濯物は私に畳まれながら、今日見て来たものを一つ一つ、教えてくれる。あそこに鉄塔があったね。鉄塔? ほら、あそこの山の向こうに、小さな。そんなのあった? あったよ、今度、一緒に見に行こうよ。

カレーライスをこぼしてしまったからどうなるかと心配していた汚れはきれいさっぱりなくなっていた。折り紙のように畳まれて小さくなった記憶を箪笥に仕舞う。開いたままの窓から吹く、夜風は涼やかですでにさみしく、私の喉元をひやりと撫でる。さみしさは敵だ。私の喉をひっ捕まえて、息苦しく、押さえ付けてくるのだから。私も負けじとその手を掴んで、指の何本かを口に含んで思い切り噛む。噛む。噛む。でもいつも、噛み切れない。それは私が獣ではないからだろうか。さみしさを殺すには獣になるしかないのだろうか。指の一本があざ笑うように唇の周りを撫ぜる。私はしずかに泣く。

窓の外から虫の声しか聞こえなくなった頃、玄関から廊下へ出てみる。静まり返った夜に、全ての屋根が顔を伏せて目を閉じている。夜風だけが元気で、年を取らない。風は、年を取らないのか。そう気付いて顔を上げると、まんまるお月さま。白い泉のように光っている。しばらく眺めていると、震える光の奥からじんわり、何かが浮かび上がって来るようで、じっと目を凝らしてみた。でも、いつまでもぼんやりとしたまま、それが何であるのか分からなかった。あそこに鉄塔があるよ。そう言われて、その方に顔を向けると確かに、黒々と盛られた山影の向こうに微かに、細い線が三角形の形をして立っているように見える。気付かなかった。もう何年も、ここに住んでいるのに。そう言って、振り向けば空にいたはずのお月さまが私の横にいる。ぼんやりとした何かが、月の鏡面の向こうから浮かび上がって来る。