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虎に翼 第126回 イタコのように言葉をつむぐ

「特別だと思っていたが、特別になれなかった」の手帳への書きこみの異形愛に身がすくんだ。

虎に翼 第125回美佐江の手帳に

メモ魔とかノート好きというほど綺麗な記録を残せないタチなのですが、それでも125回は桂場の執務室で花岡の絵が映り込んだのと同じくらい、あの手帳の走り書きに身ぶるいしました。あの文章を練り上げた脚本家の深淵に震えた、というほうが正確かも。

一歩間違えると軽薄になってしまうのだ。
大半の人は「自分は特別」と思いたいものだし、そうでなくても「あなたは特別」と言われることで満たされるようにできている。日本で教育を受けた人であれば、逆に「普通であること」の尊さを、イコール道徳と刷り込まれ、普通を踏み外すことへの怖れとスリルをダンスパートナーのように心の片隅に住まわせている。道徳も人間と同じで、年古れば、必ずといっていいほど時代遅れになるものなのだけれど。

まあいいや。このへん、好きに掘り下げていくと長く、そして「あなたの言うことは何が何だか」と遮られてしまうパターンになる。機会があれば、ここではないどこかで、あらためて書いてみるとしよう。

尊属殺が違憲であるかをあらためて問うため、最高裁で大法廷が開かれる。こんなしがない事務所の弁護士がお偉い先生方15人の前で弁論するなんてなあ、そりゃあ怖じ気づくよな、と轟がよねを叱咤する。

だい ほうてい―はふてい[3]【大法廷】
最高裁判所の裁判官全員によって構成される合議体。法令などの憲法違反,判例の抵触などの重要事項が問題となる場合に審理・裁判に当たる。

大辞林より

「そんなんじゃない、私はただ、いまこの憲法に見合った世の中になっているのかどうか、考えていただけだ」と、事務所の壁に書き殴った憲法14条を見ながら、よねがつぶやく。これはもちろん、時代を超えて、いまこのドラマを見ている私たちに向かって語りかける声である。

そして大法廷。傍聴人が全員起立して、15人の裁判官を迎え入れる。このときの礼によって部屋中から聞こえる衣擦れの音が、まるで海鳴りのように聞こえる。こういう演出、大好きだ。凄い。

モデルとなった事件。

刑法二〇〇条の合憲論の基本的理由になっている『人倫の大本・人類普遍の道徳原理』に違反したのは一体誰でありましょうか。本件においては被告人は犠牲者であり、被害者こそその道徳原理をふみにじっていることは一点の疑いもないのであります。本件被害者の如き父親をも刑法二〇〇条は尊属として保護しているのでありましょうか。かかる畜生道にも等しい父であっても、その子は子として服従を強いられるのが人類普遍の道徳原理なのでありましょうか。本件被告人の犯行に対し、刑法二〇〇条が適用されかつ右規定が憲法十四条に違反しないものであるとすれば、憲法とは何んと無力なものでありましょうか — 大貫正一

尊属殺重罰規定違憲裁判/Wikipedia

〈最高裁で大貫正一が行った口頭弁論は、山口和史や神田憲行により名演説であると評されている〉とwikiに抜粋されていたテキストである。

今回、ドラマでの山田よねの口頭弁論は、大貫氏の弁論の骨子をそのままに、だが表現をあちこち「いま」という時代の私たちにもスッと通用するよう、大胆にリライトしたものになっている。

自分の話をしてしまうが、こういうのも、好きなんだよなあ。大好物。
たとえば村上春樹の小説の、短篇バージョンと長篇バージョンで、表現がどんなふうに削ったり補ったり、リズムを整えたりしているか、違いを眺めてウハウハするタチなもので。だから、今日はドラマ感想文を書くという以上に、自分であとで眺めて楽しむテキストをこしらえてここ(保管庫)に置いておくという感覚。ありがたく。

よねの口頭弁論と、それを裁判長として判断しながら聞く風情の桂場、応援する轟、といった心理的な美しい描写を楽しむのは言わずもがな。弁論の言葉遣いや論旨の組み立て方に聴き入るのも、そのすごさに心で熱く喝采を送るのも、こうなるともう、お約束というか。

なので、裁判シーンについては「みごと」とだけ。あとは細かいことを幾つか。航一さんの「ちちんぷいぷい」の前後に気づいたことをね。

航一の「寅子さんの独り言を盗み聞きする気はないよ」は、読み解きがしづらいというか。仕事の内容を話してはいけないという守秘義務がらみのことなのだろうとは思う。新潟で美佐江がまわりの少年少女らに盗みや売春をさせていた疑いについては、当時、週一で少年事件を航一のもとで手伝っていたのだから、その部分については今更という気もするが、公務員の規則は私が思うよりずっと厳密なのだろうしね。

「蓋をしてきたものと向きあうのは苦しいわね」と寅子。
これは夫である航一にとって、共感しかない話題なんだろうな。

そして「ちちんぷいぷい」は、寅子がこれをやったときも思ったけど、優三さんを励ますために変顔をしたのと同じ、航一さんを励ますためにやったことだ。だから同じことをお返ししようとしたほうが、ついつい、無茶をしきれず、照れて笑ってしまうのも当然、というか同じ。

あと、かつて道男が「トモ子」と呼び捨てにしたのをイヤそうな顔をしたわりに、結局、いまでも航一さんは「トモ子さん」呼びなんだな。亡くなった奥さんのことは「照子」と呼んでいたけれどね。夫婦のかたちはそれぞれということか。くすくす笑いをごまかしながら「まあまあまあまあ」と、寅子が航一さんのグラスにブランデーを注ぎ足すのもすでに長年連れ添った夫婦らしい空気感でもある。(もちろん優三さんと二人で、麻布の猪爪家の食卓でお酒を注ぎ合った風景も重なる。見ているほうの心にノスタルジーが湧いてくる。ドラマって本当に面白い。)

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