虎に翼 第129回 優三さんとの約束
振り返ってみると、互い違いのように色んな話が差し込まれてくる構成のドラマなんだなあ。しかも階層を重ねていくように、軽やか&巧みに主人公のストーリーが螺旋を描いて疾走していく。
途中で何度か、ついていくのに苦労もした。ぎゅーっと濃度や緊張感が高くなったり、台本ではきっちりと中の人や現場スタッフが内容を「絵」に落とし込みやすいようにと書きこまれていたセリフや設定が主に尺の都合で刈り込まれ、無理やり作られた余白に振りまわされ、視聴者に相当なしんどさを強いてくる章(週とかエピソード)も多かった。
※余白とは→①想像の余地を残すとか、そのほうが映像ドラマとしてはカッコいいからとかの様式的な優先順位によってあえてセリフや説明を削って曖昧にしてある。②確かに吉田恵里香(脚本)さんの直近の過去作をみると、『恋せぬふたり』は演出(監督)が良くも悪くも相当に頑張って余白を作ろうとしたのではないかという印象がそこはかとなく……だけど『生理のおじさんの娘』だとぎゅっと完成度をあげて余白も少なめで素晴らしい70分になっていて、ただ、ひっかかりが、少ないというかすべてが尖っていて「すごいなあ」と息をのんで観はするものの、ゆるい感想が出しにくい感も。ノリノリだった頃のクドカンみたいな切れ味にも通じる。そこがまたいい。勿論あくまで私感ですけれど。
トラつばに話を戻すと、諦めてメモを取りながら観たり、録画して何度も見返したり、毎週の放送が終わった日曜深夜にリリースされるシナリオをポチって「おさらい」する連続だった。法律用語が多くなると、意味はわかっても自分でレジメを書くレベルに語彙を使いこなすことが出来ない。いろいろと「歯が立たない」感じが続いて、いったい自分は何してるんだろう? もともと好きなことにはハマる性格だが、それにしても、世の中には「使えるオタクと使えないオタクがいて、自分は絶対に使えないほう」と、わかっているのにやめられない。
要は、とっても楽しい数か月だった。あははー。
そして第129回
優未が戻ってきて、優三さんの写真に向かってダメな母親である自分を「向いていなかったのよ」と反省していた気配の寅子を見るなり、やっぱりそんな顔して、と言ってくる。
直前(第128回)で、美位子が話していたのに優未が「世間から見れば私だって失敗者」と応じたことで、あなたたちは失敗なんかじゃない!と寅子が話し始め、そこで何か「やっちゃいましたか」となった。
ここも解釈がむずかしかった。世間が何か言ったところであなたたちが悪いのではない。失敗と思うのなら「それは私の育て方が悪かった」のであって、気に病むくらいなら人のせいにしてしまいなさい(意訳)。
いちばん考えられるのは、母親の育て方が悪かった、の言い方かな。辛抱して、口も手も出さず、娘をそっと見守っているトラちゃんは十分に素晴らしい母親だと思うのだけれどね。これもまた、「理想」に向かって猪突猛進しすぎる、というのが寅子の長所にして、一歩間違えるとそれでまわりの人を傷つけてしまうこともある、という局面なのか。
ドラマ全体で見ると、尊属殺と少年法(家裁での「愛」の理念と働き方改革の話)とブルーパージで朋一が離職した流れとほぼ並行しての、母と娘の在り方をどう俯瞰・言語化するかというタイミング。だからつい、直前までのあれこれの解釈と、寅子のことば&優未の思いが共鳴していると深読みもしたくなる。
でも優未の答えはわりとシンプルだった。最初にまず「私の選択を応援するって言っておいて、やっぱり娘がまっとうじゃない、子育てを失敗したって後悔してるってこと?」
「このさき私はなんにだってなれるんだよ。それって最高の人生でしょう? 最高に育ててもらったって思っているから、だから私のことは心配ご無用です。小さい頃、話してくれたでしょう、たくさん拠り所をつくってほしいって」
ここにまたセバスチャン・マードックの歌声が重なる。心の中の優三さんが「トラちゃん、約束守ってくれてありがとうね」……
そして寅子は横浜家裁の所長となることが決まる。登戸で花江としんみり話して、そして猪爪のみんなと祝いの饗宴。同じく笹竹で仲間たちに祝われ、そこに退官した私服姿の桂場が登場する。そりゃあ、自由になる時間ができれば笹竹にまた通ってくるよね。
明日はいよいよ最終回。
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