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虎に翼 第15週 脚本を読む醍醐味

いろんなお稽古事と同じで、「好きを楽しむ」って自分でいろんな新しい扉を開けていくのに似ている。最初はキラッと光る綺麗なものに目を引かれ、なんだか気になる。それを何度も繰り返すうち、パッと最初の扉が開いて、今まで気づかなかったキラキラや彩りが万華鏡のように、思いも寄らないヴィジョンが目の前に展開する。そこにぐっとくる物語性があることにわくわくする。

実は、こんなふうにリアルタイムでドラマを見ることにハマったのは、ものすごく久しぶり。もしくは、こんなの初めてかもしれない。

『虎に翼』のどこがそんなに今まで知ってたドラマと違うのか。まずは感覚的にものすごくフィットしてくる。そうだよ、そうそう、たぶんこういうエンタメ経験を私はしたかったんだ!と、思わず笑い出したくなる感じがしたのは鮮烈でした。なおかつ「どこが特別」なのか、無理やり答えを出そうとしないで、ひたすらイマココを観察してみたいなと。

そして扉を開けていくうちに、エンターテイメントというジャンルであるからこそ、冒険の旅と同じく、途中で道が険しくなったり、橋が落ちていてこの先に進むのが正解かわからなくなったり、もやもやと行き詰まる「挫折」のインパクトも登場する。これって、お稽古事で少しファーズが進むとぶつかる「難易度の高いお作法」とか、自分で決まりごとの世界観をこしらえないと、なんだか苦しくなって鑑賞するのがしんどくなる。場合によって、いったん離脱とかしちゃうやつだ。

たぶん、そういう「脱落経験」まで含めて、本気で楽しもうとすればするほどイヤでもどこかで何度かは地図が破れていたりするんだろうな。

ということで、第15週が終わったところで、いったん休憩してます。
この週でもやもやしたところをアウトプットしないと先へ進めない気がする。あくまで私は、ってことですけど。
まずは週タイトルの「女房は山の神百石の位?」
女房は偉いんだから尊重しないといかん、ということわざ。

第14週で。
「いったい私はどうすればいいんだ」という穂高先生の豪速球に「どうにもなりませんよ!」と、壁打ちのホームランよろしく寅子が打ち返した豪快な虚無感は、ある意味、それしかないという歴史に残る神プレーだった。

でも、翌15週の花江の慟哭は着地点が見えなくされている。

花江「分かってる。養ってもらっていて、こういうことを言う私が罰当たりなんだって! トラちゃんが世の中の為に、必死でがんばっているって分かってるの!」
寅子「(何を言っていいか分からない)……」
花江「でも、でもね、お義父さんもお義母さんも直道さんも、もっと家族を、子供を、私を大切にしてくれたわ! こんな気持ちにさせられたことなかったわ!」

虎に翼 シナリオ 第15週より

脚本は設計図なんだと思う。だから、キャラクターの状況や心情は、セリフや映像で説明しすぎないで、余白をつくることも監督(演出家)の仕事なはず。あとは場面転換がうるさくないよう順番を整理したり、舞台劇とは違うテレビならではのリズム感を大事にしたり、決められた尺に中身ができるだけビシッと収まるように、庭師のように刈り込む。

上に引用したのは花江が寅子に向かって「トラちゃんは何も見えてない。何もわかっていない」と叫んだときの、放映ではカットされていたセリフ。ここからさらに元の脚本だと、優未を含めた子供たちが飛び出してきて、トラちゃん、もうやめて! お母さん、お願い、花江さんを怒らないで、と(寅子に怯えたような冷ややかな表情を浮かべている、とト書きが)なっています。

少し熱心なファン(視聴者)に「こういう楽しみ方もあるよ」という選択肢の一つとして提示されたのが脚本。あえて副読本は目に入れない、という楽しみ方も正当だから、ここで私が「もやもや」と書き連ねたことは、邪道の鑑賞と言えなくもない。

けど、花江というキャラクターがこういう爆発をするとき。寅子が稼ぎ手(家父長ポジション)で、花江が女房。という二人の、これは夫婦喧嘩なのだと、監督から森田望智さんに演技指導があったとのこと。その解釈はありだと思うものの、シナリオから読み取れるものは、それだけじゃない。でも、できるだけ多くの視聴者にわかりやすく、共感してもらうためには……という選択だったのだろう。もやもや……

とはいえ、寅子が優未と新しい関係を構築するために、新潟へ二人で行くことを決めるまでの流れは良かった。(そういえば二十歳の毒まんじゅうづくりの日に花江が「べそべそ泣いた」ときは、直道さんが、互いに嫌いにならないために家を出ると宣言してくれたんだっけ。今回は寅子に辞令が出たので自動的に家を出ることに)

のびのびと従兄や道男たちと遊ぶ優未を引き戸の硝子越しに盗み見る母・寅子。あの場面、刺さったなあ。

「相変わらず優未に甘いなあ、おまえら」「だって優未は猪爪家の姫さまだから」って、言われて嬉しそうな優未の笑顔。残酷だなあ。 でも、あんなふうにお姫様扱いというかたちで愛されている、同時にスポイルされている危うさが見えて、ひやっとさせる凄さ。

家族会議での、みんなの言葉(語彙)の使いかたにも注目した。すんっの延長かもしれないけれど、まずは「ごめんなさい」「はい」のかたちを尊重し合う。あと「上から」を使わない代わりに「偉そう」と言う。語彙と対話を摸索しながら互いにまっすぐに向きあう、というかたちを作っていく。他人軸の排除。

「ありがとう」も使うけれど決して乱用しない。誤解させてしまったのなら申し訳ない系の今時ポリティカルな形式謝罪(空疎だということを、言ってる口も言われたほうもお約束だと知ってる、究極のすんっ)ではなく、そんなふうに思わせてしまってごめんなさい、と。
身勝手な余白を残さないできちんと言う。

ここまで書いて、だいぶすっきりした。
特に花江が優未をはさんで寅子に対して「うまく言えないが一歩まちがえたら大爆発しそうな不穏な気配」を孕んでいる、というのがね。どんな家庭でも「夫婦喧嘩」は根っこがどこまで伸びてるかわかりにくくて、ただの「喧嘩」なんてもんじゃないことがほとんど。奥さんが不満を抱く、その不満が個人レベルなのか日本社会レベルなのか。丁寧にみていくと、実は古くて新しい、固定概念にとらわれたら意味もわけもわからないハラスメントかもしれない。DVと呼ぶのもデリケートだけど、たぶん軽く考えると人が死んでもおかしくない。寅子も家裁で危うく大けがしたかもしれない。剃刀で斬りかかられてね。

あんまり簡単に、中の人(役者)の才能によりかかってわかりやすく表現しないでほしい。というようなことを思ったみたいです。私。

でも、そういう手法も「あり」なのがドラマの醍醐味。
まるごと楽しんでいきたいです。


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