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できるかどうかを選択する癖

誰かが何かをしている様子や作品などを見ると、
「これは自分にできるだろうか」
と考える癖がある。

(写真は先日いただいたフルーツ笑)

あれは、無理である。
あれぐらいならできるかもしれない。
これは私にもできると思うが、わざわざやりたくない。

そんな感じにすぐに分類してしまう。

例えば、芸人さんが専門家に習って、一輪車でかなり高度なパフォーマンスができるようになるまでを、バラエティー番組を見た時、練習すればもしかしたら自分でもできるかもしれないが、そこまでしてやりたいとは思わない。あれは見ているだけで良い。
と考えて落ち着く。

頼まれてもいないのに、常にそれが自分ができるかどうかを意識している。

それ、きっと私に絶対にできない。それが悲しい。
と思うことがある。

例えば、
「木曽路はすべて山の中である」

こんな書き出しで始まる美しい小説を読み始めてしまうと、あああ、無理だ!
私には到底無理だあああ。
と切なくなる。

気をてらった設定やどんでん返しがあるわけでもなく、目を引くキャラクターが出てくるわけでもない。
折り目正しい美しい文章で、情景を淡々と説明していく。
行ったことがないのに、その森で水を飲む警戒心の強い鹿の姿が、息づかいまでも感じられる。

ああ、藤村先生、尊敬します。

そして、無理だ。
私には無理だ。
(悶え苦しむ)


「いや、諦めてはならぬ」
(ちょいちょい出る老師様キャラ)

「はっ!
そうでした。老師様」

「人は自分に近いものに憧れを持つのじゃよ。その距離は遠くとも、お前の中にそれがあるから惹かれてしまうのじゃ」

「そうなのですか、老師様」

(私の脳内では、謎のキャラ同士が会話することはよくあることなのでしばしお付き合いを笑)

「そうじゃ。お前がその文章を今すぐ書けないからと言って,永遠に近いものを書くことができないとはならぬのじゃよ」

「そ、そうでしょうか。
だとしても遠い」

「遠くとも、何もしないより,一歩でも近づくことをすれば良い。
それだけじゃ」

「はあ」

「ほれ、何をボサっとしておる。
今すぐ書き写すのじゃ。
そして、気に入ったシーンを思い浮かべて、自分なりに描写してみるのじゃ」

「そ、そんな練習方法が!」

んがぐぐ(サザエさんで締めてみました)

とまあ、こうなるので。
よし、今日帰ったら(これから仕事)やってみよーとなる。

人が何かをするのを見て、自分にできるか否かをとっさに考える行為は、図書館に行った時に,ここにある本を全て読めるわけではないのだ、という悲しみを感じることに似ている気がする。

全て読むわけにいかないけど、それはもう仕方ない。
でもせめて好きな本、読みたい本を片っ端から読んでいこう。
そこが共通項かな、と。

あらゆる行為(一輪車に乗る、油絵を描く、バンジージャンプするなど)を全て体験することはできない。
だから選んでいかなくてはならない。そのため、まずはできるかどうかを考えて,できることであっても,やりたいかどうかを常に考えている。

体験することを含めた,未知なるものを知ること,すなわち知識欲が、私のあらゆる欲求の中で一番強いということである^_^

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