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「いびつな魂」第二章

※あらすじと第一章と各章へのリンクはこちらから

 

 

第二章 美術室の怪とアパートの怪


1 

 自分の偏差値で試験に合格できて、自転車で通える公立高校。そうやって深く考えもせず選んだ高校で、流されるままに日々を過ごしていたら、あっという間にテスト週間に突入していた。

放課後、いつもはロッカーや机の中に置いたままにしている教科書をのろのろとリュックにつめていると、いつの間にか教室は静まり返っていた。ふと窓から外を見ると、こことは対照的ににぎやかで、生徒が連れ立って話をしながら通り過ぎていく。

みんな帰るのが早いな、わたしも早く帰ろう。

教科書をつめたリュックはずっしりと重たくて気分まで重たくなる。ため息をつきながら教室を出て、人通りの少ない廊下を歩き階段ホールに差し掛かると、階段から勢いよく駆け下りてきた人とぶつかりそうになって、心臓が一瞬、跳ね上がった。

「ああ、ごめん!」

ぶつかりそうになった人が慌てたような声でそう言った。同じクラスで後ろの席の市村さんだ。下の名前は凛、だったかな。おでこを出したポニーテールとすらりと伸びた手足が、さわやかで活発な印象を与える。わたしにぶつかりそうになった時にペンケースを落としたのか、床に転がるそれを拾っていた。

「どうしたの、そんなに慌てて」

 様子が気になってそう尋ねた。

「え、ああ、うん」

市村さんは、返事はするものの、その後が続かず表情も硬い。話せないことかな。挨拶や少し話をする程度で、親しいわけでもないのに馴れ馴れしかったかも。気まずいなと思っていたら市村さんが階段を見上げてからたどたどしく話を始めた。

「美術室にペンケースを忘れたから取りに行ったんだけど、ドアを開ける前に、中から音がするから人がいると思ったのに、開けても誰もいなくて……」

それで怖くなって、慌ててペンケースを取って駆け下りてきた、というわけか。変な話だから言いにくかったのかな。でも音なんて、わたしだったら気のせいで済ませてしまうけれど、そんなに怖い?

「どんな音だったの?」

「ガタッて、一瞬だったからよく分からないけれど」

「もしかしたら準備室に先生がいたんじゃないかな。そこからの音が美術室からのように聞こえただけかも」

先生はそこでいつも絵を描いていて、帰るときに美術室と準備室の鍵を掛ける。美術室のドアが開いたのなら、先生がいた可能性は高い。美術部のわたしはそのあたりの事情には詳しい、と言っても部活にはほとんど参加していないけれど。

「なんだ、そういうことか」

市村さんは慌てていた自分がおかしくなったのか、それともほっとしたのか笑いながらそう言った。ペンケースをリュックにしまって背負い直し、そのまま二人で昇降口へと向かう。

「この前、美術室の怖い話を聞いたから、余計に怖くなっちゃって」

市村さんがそんなことを言い出した。

「へえ、どんな話?」

「部活の先輩が話してくれたんだけどね。かなり昔のことなんだけど、美術室の後ろにある掃除道具入れのロッカーに人の生首が入っていたんだって」

「なまくび?」

びっくりして聞き返してしまった。それは怖い話ではなくて大事件じゃ……

「木か石膏で出来た偽物だけどね。ロッカーを開けてそれを見つけた人たちがびっくりして叫んだり気絶したり、大変な騒ぎになったらしいの。犯人捜しが始まったんだけど、見つからなくて」

「それで?」

「騒ぎが落ち着いたころ、今度は左手がロッカーに入っていた。犯人は自分の手をモデルにこれを作ったはずだから、この手をもとに犯人を捜したけれど見つからなかった。その後も人の体のパーツがロッカーに入れられたけれど、みんな慣れたのか騒がなくなって、それでいたずらも止んだらしい。でもしばらくして変な噂が広まり出したんだって。ロッカーの中に入っていたのは人体の一部、それをあそこに入れて何か儀式でもしていたんじゃないかって」

「儀式? ロッカーで?」

話が急に奇妙な展開になって、つい呆れたような声が出てしまった。

「悪魔への捧げものとか」

市村さんが声をひそめてふざけたように言った。

「人体の一部をひとつずつあそこに入れて、全てそろうと何かが起こる、とか」

わたしもつられてふざける。ふたりでクスクス笑っていたら、いつの間にか昇降口についていた。昇降口も人が少なくて静かで、靴を床に放った音がいつもより響く。

「それで話はおしまい? 何か起きなかったの?」

「たまにロッカーから音がするらしいの。だからさっき怖くなっちゃって」

「それは怖かったね」

掃除道具入れの中で音といったら、あの虫が入り込んでいるくらいしか思い浮かばないけれど、そっちの方が怖い。それにしても、どの学校でもこういう怖い話はつきないな。でもこの話は明らかに誰かのいたずらだし、儀式の話は憶測でしかないし、そもそも幽霊が出てきてない。

「わたし美術部だけど、そんな話は初めて聞いたな」

「相川さん、美術部なんだ。先輩から聞いてないの?」

「先輩としゃべったことない。楽そうだから入っただけで、ほとんど参加してないし」

部活に入るつもりはなかったのに、一年の間は入らなければいけないという決まりがあって、わたしは楽そうな美術部を選んだ。最初は顔だけは出していたが、美術室の隅で必死に絵を描いている人や、グラウンドで練習をする運動部に好きな人がいるのか、窓からそれを眺めて騒いでいる人がいて、居づらくなって顔すら出さなくなった。

「何それ、そんな理由で選んだの?」

クスクス笑いながら市村さんが言った。

「市村さんは何部に入ったの?」

「わたしは演劇部だよ」

「へえ、楽しそうだね」

市村さんは動きも軽やかだから舞台映えしそう。

「わたしこっちだけど、相川さんは?」

昇降口から外に出ると、市村さんが正門を指さして言った。

「わたしはこっち」

わたしは裏門の方を指さす。校舎の裏にある自転車置き場に自転車を取りに行き、そのまま裏門からいつも帰宅している。

「そっか、じゃあね」

「うん、また明日」

市村さんと別れてから、なんとなしに二階の美術室の窓に目をやると、カーテン越しに黒い影がさっと動いたような気がした。

誰かいた? 今はテスト週間、部活はないから生徒はいないはず。だったら先生か。

 

 

夕食後、二階にある自室にこもって勉強するけれど全然はかどらない。分からなさ過ぎてやる気も出てこない。頬杖をついて教科書をめくるけれど集中できず、つい脱線したくなり本棚にある叔父さんにもらった見本本に手を伸ばしかけて、ふと気がついた。

そういえば叔父さん、頭いいんだよね。勉強を教えてくれないかな。

思いついたら居ても立っても居られず、机に置いてあるスマホを手に取って、この前、交換した連絡先を画面に表示させる。

図々しいかな、一回しか会ったことないのに。叔父さん、今何しているんだろう、執筆しているかもしれない、忙しいかな、出てくれるかな。ためらうものの勢いで電話を掛け、呼び出しのコール音をいつもの癖で数えていたら、六回目で叔父さんが出た。

「もしもし真知ちゃん? どうしたの」

ちょっと驚いたような叔父さんの声。初めてわたしから電話を掛けたから、何か緊急の用事とでも思っているのかもしれない。

「叔父さん、この前はありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとう。それよりどうしたの」

「テストが近いので勉強を教えて欲しいんですが」

遠慮がちにたどたどしくそう言った。

「何だ、そんなことか。ちゃんと教えられるか分からないけれど。それでもいいなら」

明るい声でそう言って叔父さんは快諾してくれた。やった、嬉しい。

「真知ちゃんがこっちまで来るのは時間がもったいないから、今度は僕がそっちに行くよ。図書館かファミレスかいい所ないかな」

来てくれるのは嬉しいけれど、図書館は会話がしにくいしファミレスで勉強するのもなんだか落ちつかない。家に来てもらうのが一番いいけれど、お母さん何て言うだろう、叔父さんは来てくれるかな。

「探しておきます。いつがいいですか」

「いつでもいいよ」

いつでもいいって仕事大丈夫なのかなぁ。融通がききそうだし、わたしに合わせてくれるのかも。悪いなと思いつつも嬉しい。

「じゃあ、今週の土曜日でお願いします」

場所が決まったら連絡することにして電話を切った。

一階に下りてリビングに行くと、お母さんはパジャマ姿で首にタオルをかけてソファに座ってゆったりとテレビを見ていた。

「真知、お風呂あいたわよ」

そう言うお母さんに近づき、おずおずと切り出す。

「あのさ、叔父さんに勉強教えてもらうことになったんだけど」

「そうなの? いつの間にそんなに仲良くなったの?」

お母さんはテレビから視線をわたしに向け、驚きつつも嬉しそうにそう言った。

この前のことは、叔父さんは編集者も呼んでくれていろいろ教えてくれた、入院はやっぱり取材だったみたい、恋人は多分いない、とお母さんに報告しておいた。恋人の有無は分からないけれど、いそうと言ったら相手はどんな人か質問攻めに合いそうだから、いないことにしてしまった。

「勉強するなら、うちに呼んだら?」

お母さんが嬉しそうにそう提案する。

「あーでも……」

「大丈夫、お母さんは出かけるわ。いつにしたの?」

「今週の土曜日にしたけど。途中で帰ってきたりしない?」

「しないわよ。帰って来たところで修に逃げられるだけでしょ。まったく、人なれしてない猫みたいよね。猫なら猫で、無理強いしても嫌われるだけだから、あっちのタイミングに合わせるわ」

お母さんはベテランの野良猫ボランティアのようなことを言いだした。

「そうだ、お昼ご飯、修の分も作ろうかな。食べてくれるかしら」

お母さんの方が叔父さんと会いたいだろうに、わたしばかり仲良くなるのは悪いかなあと後ろめたくもあるけれど、お母さんはそんなことまったく気にしていないようで、本当に嬉しそうにしている。

「真知と修ってなんとなく似ているのよね。だから合うのかしら。こんなことならもっと早く会わせておけばよかった」

ひとり言のようにお母さんはつぶやいた。似ている? そうかな、でもそう言われてなんだか嬉しい。

「たのしみだね、真知」

部屋に戻って叔父さんに電話を掛けて、お母さんはいないから家に来て欲しいこと、お母さんがご飯を作っておいてくれることを話したら、嬉しそうな声で了承してくれた。

 

2

 土曜日、ダイニングテーブルに料理が並べられ、リビングテーブルに教科書を準備して、そわそわと時間を気にしながらひとりで待っていると、約束の時間の少し前にインターホンが鳴った。すぐさまリビングの窓から外を見ると、門扉の向こうに叔父さんが立っている。急いで玄関ドアを開いて、叔父さんを招き入れた。

「わざわざ来てくれてありがとうございます」

「こちらこそありがとう。実は来てみたかったんだ」

叔父さんはグレイのジャケットをすらりと着こなしていて、こうして見るとちょっとかっこいい。スイーツが入っていそうな箱と重たそうな紙袋を持って、嬉しそうに家の中に入って来た。リビングに通すと、叔父さんは箱と紙袋をわたしに差し出した。

「これ、今日はドーナツにしたよ。あとこれ、この前持って帰れなかった見本本」

「ありがとうございます」

本はついでに持ってきて欲しかったけど、図々しいかなと思って頼めずにいた。嬉しくて顔がにやける。テストが終わったら読みふけろう、楽しみができた。それにドーナツの箱も大きくて重たくてたくさん入っていそう。お母さんの分もある、喜ぶだろうな。

「スッキリしているね。まさに姉さんの家って感じだ」

顔を上げると、叔父さんは感心したように部屋を見回していた。

お母さんは物が出ているのが嫌らしく、とにかく何でもしまいたがる。対面型のキッチンは片付いているし、家具も必要最低限のものしかない。木製のダイニングセットと、ベージュの布ソファとテーブルとテレビ台とキャビネット。

しばらく部屋を眺めていた叔父さんは、何も言わずに写真が飾ってあるキャビネットの前に行き、静かに手を合わせて頭を下げた。

来てみたかったって、もしかしてこれがしたかったのかな。しばらくそうしている叔父さんの背に、会ったことあるんですかと聞きたくて口を開くけれど、喉がつかえる感覚がして呼吸が苦しくなる。

まだ無理だ。その話題を、口にできない。大丈夫、ゆっくり深呼吸して。自分にそう言い聞かせて、叔父さんに気づかれないように荒くなった呼吸を整える。

しばらくして叔父さんは静かに振り返ると、ダイニングテーブルに目をやった。

「すごいね、おいしそうだ。姉さんの手料理なんて何年ぶりだろう」

はしゃいだようにそう言った。わたしは気を取り直して、叔父さんに席を勧めた。

「お母さん、はりきって作ってくれました。さっそく食べませんか」

「そうだね、いただこう」

席に座って二人でそろっていただきますと言ってから食べ始めた。こうしてここに大人の男の人が座るのは何年ぶりだろうとふと思ってしまい、またも何かがこみ上げそうになるのを、料理を飲み込むことでやり過ごす。叔父さんを見ると、嬉しそうに料理を口に運んでいる。

「この玉子焼き、甘くておいしい。父さんと母さんが留守の時にたまに姉さんが甘い玉子焼きをつくって食べさせてくれたんだ。懐かしい味だ」

こっちに気を使っているわけでもなく、本当においしそうに叔父さんは次々に料理を平らげていく。細いから小食かと思っていたけれどそうでもないみたい。たくさん食べたと知ったらお母さんが喜びそうだし、わたしも見ていて気持ちがいいし、つられて食欲が増してきた。二人して存分に料理をお腹に詰め込み、食後のデザートにドーナツにまで手を伸ばして、おいしかったと口々に言いながら大満足で一息ついた。

「さあ、そろそろ始めようか」

しばらくすると叔父さんが張り切ったようにそう言って、リビングテーブルに移動して勉強が始まった。わざわざ来てもらったのだから、しっかり教わらないと。まずは一番苦手な数学から。叔父さんは「懐かしいな」と言いながら教科書をパラパラめくると、「意外と覚えているものだな、これなら教えられそう」とつぶやいた。

床に座って勉強をするわたしの横に、それを見守ってくれる大人がいる。親とこういう時間を過ごしたことがないから、なんだかくすぐったい。でも安心して集中できるし、勉強がはかどる。それに叔父さんはわたしが理解できるまで、丁寧に根気よく教えてくれる。

「すごい。分かりやすい」

わたしがそうつぶやくと、叔父さんは作家として軌道に乗るまで、家庭教師をして生計を立てていたことを教えてくれた。

教えてもらいたいところを全て教わって、時計を見るとすでに数時間が経っていた。気持ちいい達成感と満足感。これなら何とかなりそう、いやむしろいい点とれるかも。そう思うとテストを受けることが楽しみになってきた。

「勉強って、分かると楽しい」

わたしは思わず、そうつぶやいていた。

「楽しいのが一番だよね。楽しくなければ続かないし、続かないものは身につかない」

叔父さんは笑いながらそう言った。もっと一緒に勉強したいけど、お母さんもそろそろ帰ってくるかもしれないし、叔父さんだって暇じゃない。頃合いかなと思っていると、

「そろそろ帰ろうかな、料理もおいしかったし楽しかった。姉さんによろしく」

叔父さんが、立ち上がって背伸びをしながらそう言うので途端に名残惜しくなる。

「駅まで送っていきます」

わたしは立ち上がりながら慌てて言った。

「ありがとう。でも一人で大丈夫だよ。それより勉強頑張って」

もう少し一緒にいたいのに。勉強ばかりで全然おしゃべりできなかったから、少し会話がしたい。

「気分転換に、ちょっと歩きたいんです」

わたしは勢いよく立ち上がると、叔父さんの返事を待たずにスマホと家の鍵を持ち、さっさと玄関に向かい外へ出た。叔父さんはしょうがないなとでも言いたげに、ゆったりと笑いながら出てきた。

駅までの道を二人で歩きながらおしゃべりを楽しんでいると、立ち並ぶ住宅の高い塀の上から人が顔をのぞかせたから、わたしはそれでロッカーに入れられた首の話を思い出した。

「そうだ、学校で友達からおもしろい話を聞いたんですけど」

市村さんに聞いた話から、音の正体は虫説、最後にわたしが見た窓の黒い影のことまで全て話すと、叔父さんは終始、興味深そうに話を聞いてくれた。

「へえ、おもしろいね」

「この話、小説のネタになりますか? これをホラー小説にするなら叔父さんはどんな話にしますか」

「うーんそうだなあ」
腕を組んで叔父さんは空を見上げる。

「高校生という子どもと大人の狭間の不安定な精神が、その話に便乗して得体の知れない何かを生み出した、みたいな」

不思議なことを言い出したから、わたしはきょとんとしてしまう。

「それって幻覚ってこと?」

「幻覚っていうより、願望が実体化したような」

ますます分からない。

「怖い話ってさ、親密度が増すような感じしない? 肩を寄せ合って内緒話でもするように声をひそめてさ。そう考えると、怖い話をするって優秀なコミュニケーションツールだと僕は思う」

いきなり話が飛んだけれど、そうかもしれないと納得する。市村さんと話をしている時、まさにそんな感じだった。それに怖い話は恐怖という感情をみんなで共有することで、仲間意識も芽生えそう。だったら話は怖ければ怖いほどいい。

わたしが理解しているかどうか判断するように叔父さんはわたしの顔をのぞきこんだ。

「友達とうまくやれるか不安な高校生が、友達と親密になるために怖い話を必要とした。美術室の生首のいたずらを何やら怪しげな儀式と結びつけて、怖い話のネタになるような恐ろしい何かを無意識に生み出してしまった」

「それがロッカーに住み着いている。なるほど、おもしろいですね。でも怖くはないな」

「手厳しいね。僕は幽霊より不気味だと思うけど」

笑いながら叔父さんはそう言う。

「どうしてですか?」

「幽霊は昔から知られているし、いろいろ対応も出来る。お札貼ったり、塩まいたり。でも得体の知れないものは対応のしようがない」

「そっか、幽霊は成仏させられるけれど、得体の知れないものはどうやって消せばいいのか分からない。お寺や神社も頼れない」

「そうだね。それに幽霊はこの世に恨みがあるとか、こっちに憑こうとしているとか、目的が予想できる。でも得体の知れないものは目的が分からない。それがもし自分の部屋の中に居座っていると想像したらちょっと不気味じゃない? そんな存在が四六時中、真知ちゃんをじいっと見ているんだ……」

感情のない目がわたしをじっとりと見ていて、どこに移動しようともその視線は常にわたしを追いかける。そんな想像が頭に浮かんで、思わずゾッとする。

「ちょっと叔父さん、やめて」

「流石に怖かった? ごめんね」

笑いながら無邪気に叔父さんがそう言うから、怖い気持ちはすぐに消えていった。

話に夢中になっていたら、いつの間にか駅はすぐそこだ。そろそろお別れか、テスト終わったらまた会いたいな。そうだ、いい点とってご褒美にどこかに連れて行ってもらえないかな。そんなことを考えていると、

「相川?」

ふいに自分を呼ぶ声が聞こえて、それにつられて前方を見ると、ひとりの男子がこちらを見ている。

「あれ、紺野? 久しぶり」

中学の制服姿を見慣れていたから、私服だと誰なのかすぐには気づけなかった。そこにいたのは小学校と中学校の同級生の紺野だ。気さくで話しやすくていいやつで、そこそこ仲は良かった。その紺野がなぜか眉を寄せてわたしたちを見ている。小学校の同級生はわたしの身に起きたことをたぶん知っている。だからこの大人が誰なのか、いぶかしんでいるのかもしれない。

「こっちね、わたしの叔父さん」

手のひらで叔父さんの方を指してそう説明すると、紺野はすぐに表情を柔らかくした。叔父さんにも紺野を紹介する。

「紺野は小学校と中学校が同じで、中三の時に同じクラスだったの」

わたしがそう言うと、紺野は叔父さんに向かって小さくお辞儀をした。

「紺野翔太です。こんにちは」

「こんにちは。真知がお世話になっています。真知の母方の叔父の岩久です」

叔父さんが落ち着いた声でそう言うからびっくりした。しっかりした大人に見える。変なことに感心していたら、叔父さんはわたしたちを交互に見てにこにこしている。

「真知ちゃん、送ってくれてありがとう。勉強頑張ってね。僕はこれで失礼するよ。紺野くん、じゃあね」

そう言うと、邪魔にならないよう気遣うように叔父さんはそそくさと去っていった。叔父さんの姿が駅の中に消えていき、残されたわたしたちは照れくさいような気まずいような微妙な空気。

「久しぶりだね」

さっき言ったのに、わたしは気づくと同じことを繰り返していた。

「久しぶりっていても卒業してから数ヵ月しか経ってないけどな」

笑いながら紺野が答える。

「さっきまで叔父さんに勉強教えてもらっていたの。もうすぐテストだから。そっちも今テスト週間?」

「うんそう。図書館で勉強してきた」

駅の向こう側にある図書館の方を指で示しながら紺野が答えた。

何だか言葉がするすると出てこない。中学校でみんなと一緒の時はあんなに会話が弾んでいたのに、二人きりになると途端に話しにくくなる。それに紺野、大人っぽくなった。背が伸びたのかな? 流行りの服をさらりと着こなしているし、知らない人みたいで居心地が悪い。

「そういえば相川って、オカルト好きだったよな」

沈黙を破るように紺野がそんなことを言いだした。

「好きじゃないけど」

いきなりそんな話題を振られて戸惑いながらそう答える。

「小学校の時、その手の本よく読んでなかった?」

「ああ、あの時はね。いろいろあったから」

いろいろあったで話が通じたのか、紺野は何と答えていいのか分からないようにしばらく口を閉ざした。小学校が同じということは過去を知られている便利さと、知られたくないのに知られている不愉快さを兼ね添えている。

「じゃあ、わたし、行くね。バイバイ」

気まずさを振り払いたくて去っていこうとすると、紺野は焦ったような声を出した。

「あのさ、ちょっと相談に乗ってくれないか」

「相談?」

何でわたしに? 確かに仲は良かったけれど学校で話すくらいで、学校以外で会うこともなかったし、相談を持ち掛けられるほどの仲でもない。

「いきなりこんな話をするのもなんだけどさ。オレの姉ちゃんが今年から大学生で、一人暮らし始めたんだけど、そのアパートに出るらしくて」

言いにくそうに紺野が事情を話した。

「出るってまさか幽霊?」

最近こういう話に縁があるな。

「たぶん姉ちゃんの気のせいだろうけど。怖がって家に帰ってきちゃってさ。大学も家からじゃ遠いから休みがちになって。オカルトに詳しくなくても、相川は昔から勘がするどかったし、何か分からないかな」

読書のおかげで洞察力はある方だと思う。それに心霊動画で鍛えた考察力が役に立つかもしれない。興味を魅かれるものの、解明できるとは限らないし期待されても困る。

「わたしに分かるかなあ」

「分からなくてもいいからさ、姉ちゃんと会って話してやってくれない? いい気分転換になるかもしれないし」

ふいに叔父さんの小説のネタになるかもしれないと思ってしまった、お姉さんに悪い。それにお母さんと叔父さんの関係を知って、世間一般の姉と弟はどれくらい仲がいいものなのか気になっていた。紺野とお姉さんがどんな感じなのか見てみたい。

「何の役にも立たないけど、それでもいいなら」

わたしがそう言うと紺野がありがとうと言いながら、にっと笑ったので、ああ紺野だと思った。この表情は昔からよく見ていたから。

連絡先を交換し、お互いのテストが終わってから紺野のお姉さんに会いに行くことを約束して、家の方向が同じだったので途中まで一緒に帰ってから別れた。

家に帰って洗濯物を取り込んだり、使った食器を洗ったりしていると、お母さんが帰ってきて、ドーナツの箱の中をのぞいて嬉しそうにしながら、叔父さんとの勉強はどうだったか聞いてきた。

 

3

 中間テストも無事に終わって、紺野のお姉さんに会う日がやって来た。よく考えたら、男の子の家に遊びに行くなんて初めてだ。なんだか緊張してきた。鏡で何度も自分の姿をチェックする。シャツに黒パンツ、髪は後ろで一つに束ねただけなんて適当すぎるかな、駅で会った時も同じような服装していたし、でもおしゃれしていくのも何だしこれでいいか、でもなあ。自分の思考がころころ変わって忙しい。

時間に余裕があったはずなのに、迷うことが多くて遅刻しそうになってしまって、慌てて家を出た。

「いってらっしゃい、真知」

 

待ち合わせ場所のコンビニに行くと紺野はもうそこにいて、わたしに向かって手を振ってくる。うわあ、デートの待ち合わせっぽい。照れながらもわたしは紺野に声を掛けた。

「ごめん、待った?」

「大丈夫。オレも今、来たところだから」

このやり取りよくあるやつだ。何だか大人になった気分でついにやにやしてしまう。紺野に気づかれませんように。

「ありがとな。家、ここから十分くらいだから」

歩きながらテストはどうだったか高校生活はどうか、そんなことを話す。いい天気で気持ちが良くて気分が浮かれてくるものの、当初の目的を忘れてはいけない。

「お姉さん、家にいるんだよね?」

「一人で留守番してる。元気だけどアパートに戻る気にはなれないみたい」

「どんな事が起きたの?」

「いや、姉ちゃんの気のせいで本当は何も起きてないと思う。オレ試しにさ、一人でアパートに泊まりに行ったんだよ。でも何も起きなかった」

「そんなの解明しようがないじゃない。わたしはどうすればいいの?」

「詳しいふりして説明してくれれば、姉ちゃんも安心すると思ってさ。オレらは気のせいとしか言えなくて何も解決できないし」

「うん、分かった」

そんなことを話していると、紺野の家に着いた。おじいちゃんとおばあちゃんも一緒に住んでいそうな、昔ながらの大きな和風の二階建ての家だ。門扉はなく生垣が敷地を囲んでいる。紺野は鍵を取り出し開錠して、玄関のドアを開けた。

「ただいま、相川連れて来たよ」

中に入りながら、大きな声でそう言った。

「こんにちは。お邪魔します」

つられてわたしも中に声をかけると、すぐに奥から足音がして、茶色に染めた長い髪を手でかき上げながら女の人が姿を現した。大きなシャツとレギンスを着て、爪には綺麗にマニキュアが塗られている。おしゃれな人。

「こんにちは。翔太の姉の由衣です。さあ、上がって」

わたしを見ると笑顔を見せてそう言った。

靴を脱いで上がると、玄関からまっすぐ伸びる廊下の奥で、おじいさんがにこにこしてこちらを見ていたから、お邪魔しますと声をかけて廊下の左にあるリビングに入った。お姉さんはリビングに隣接しているキッチンに向かった。

「相川さん、オレンジジュースでいい?」

「はい、ありがとうございます」

「相川さんは下の名前は何て言うの?」

「真知です」

「かわいい名前だね、高校どこなの?」

立て続けにしゃべるお姉さんは明るくて元気が良くて、アパートの怪奇におびえている人とは到底思えない。

リビングの床に三人で座り込み、お姉さんが用意してくれたジュースとお菓子を食べながら一通りの世間話が済むと、紺野がお姉さんに話を促した。途端に、お姉さんは別人のように表情を曇らせる。

「真知ちゃんって詳しいの?」

「詳しいというか、えっと、そういう本を読み漁ったことがあります」

「誰も信じてくれないんだけれどね」

お姉さんはそう前置きした。

「引っ越したばかりの頃は何もなかったし、あたしも一人暮らしを楽しんでいた。最初に、アパートで気配を感じたの。そこに何かいるような、そしてそれにじっと見られているような、そんな気配。それから、目の端に何か黒い影のようなものが見えるようになってきた。ちゃんと見ようとすると見えなくなるから、気のせいだと思っていたけれど、それにしては変なの、それアパートでしか見えない。そしてそのうち、物が勝手に動くようになった。ポルターガイストって言うのかな。朝起きると、コップが床に転がっていたり、冷蔵庫が開きっぱなしになっていたり。さすがに怖くなって帰ってきちゃった。」

一気に話すとお姉さんはコップのジュースを飲み干して、力なく微笑んだ。その様子が弱々しく繊細そうに見えて、ストレスを抱え込みやすいのかもしれないと見当をつけた。

変なものが見えるようになったのはストレスのせいで、物が動いた件に関しては、寝ぼけたまま冷蔵庫の飲み物をコップにつごうとしていたように思える。

「こっちに帰ってきてからはどうですか?」

「帰って来てからは何も起きてないよ」

「そのアパートって何か、いわくでもあるんですか」

「新しい建物だし、そんなものないと思う」

「大学は行かなくていいんですか」

「行きたいけど、あんまり楽しくないし……」

やっぱり一人暮らしが寂しい、大学生活がうまくいかない、そのストレスじゃないかな。でも、自分より人生経験豊富な大人にストレスですよ、なんて言いづらい。そうだ、後から紺野に説明しよう。そう思って「よく分かりません」とごまかすと、お姉さんは最初から期待していなかったのか、気落ちする様子もなく「そうだよね」とあっけらかんと言った。

「話を聞いてもらっただけでもスッキリしたし、ありがとう」

お姉さんはにっこり笑ってそう言うと、怖い話はうんざりとばかりに紺野の小さい頃のおもしろい話などをわたしに聞かせてくれた。自分の話をされて紺野も恥ずかしがったり照れたりいろんな顔をしておもしろい。紺野とお姉さんは仲が良くて、小さい頃もよく一緒に遊んでいたみたい。お母さんと叔父さんもこういう時期があったのかなと思いながら、三人で他愛のない話を楽しんで、かなり長居してから紺野の家を後にした。

紺野が家まで送ってくれると言うので、わたしの見解を話す時間が出来た。

「ストレスじゃないかなと思うの。大学も楽しくないって言っていたし、ストレスで神経が過敏になって、何かの気配を感じたり黒い影の幻覚が見えたりした。物が勝手に動くのはお姉さんが寝ている間に自分で動かしているのかもしれない。夢遊病って言ったら大げさかもしれないけれど。それで熟睡できないから、もうろうとした頭のせいで、余計に気配や黒い影が見えてしまうのかも」

「なるほど。すごいな、相川」

感心するように紺野がそう言うから、途端に照れくさくなる。紺野は腕を組んでいろいろ考え込んでいる様子。お姉さん思いだな。

「姉ちゃんに言っても受け入れなさそう。どうしよう」

「家では何も起こらないんだよね」

「うん。だから余計にアパートにいる霊の仕業と思い込んでいるみたいだ」

「他の人がいてもそれが起こってくれれば、手っ取り早いのにね」

霊がいるなら、こそこそせずに、大勢の前に堂々と出て来ればいいのにといつも思う。

「姉ちゃんとアパートに泊まってみようかな。何か分かるかもしれない」

「でもわたしの推理が当たっているとは限らないよ。他の理由があるかもしれないから、鵜呑みにして欲しくないんだけど」

「それでも、オレにはそんなこと思いつかない。相川に相談してよかった。ありがとう」

わたしの顔をのぞき込んで紺野がそう言った。ふいをつかれて心臓がどきっとする。うわぁ、何か、顔が熱い。

「家、見えてきた。送ってくれてありがとう」

紺野に顔を見られたくなくて、わたしは慌ててそう言うと家に向かって早足になる。

「ありがとう。どうなったかまた連絡するよ。じゃあな」

紺野はそう言うと手を振って来た道を引き返していった。また連絡してくれるんだ。

 


「母さんも勝手よね。今までわたしのことを放っておいたくせに、あんたの代わりに家を継げと言ってきたわ」

あざ笑うようにそう言うと、姉は急に態度を荒らげた。

「あんたが急に出ていくからこんなことになったのよ!」

姉は僕の胸倉をつかむと細身の女性とは思えないくらい荒々しい力でそれを引っ張った。僕の着ているワイシャツのボタンがはじけて、床にカツンと寂しい音を立てる。

姉の顔が赤く染まって、そして恐ろしい父の顔になっていく。優しく美しい姉の姿はそこにはない。いるのは、怒りで赤く燃える鬼。

僕の後ろに父と母の姿でも見えているのか。姉は僕の背後を見ながら静かにつぶやく。

「わたしは絶対に戻らない。あんな所でお腹の子を育てたくない。父さんにも母さんにもあんたにも、わたしの幸せを邪魔させない」

ごめんなさい。あなたを鬼にしたのは僕。あなたを鬼にしたくないから、僕はもうあなたに会えない。

 

いびつな魂 第三章に続く


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