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LFJ:エル=バシャさんマスタークラス

昨日は、ラ・フォル・ジュルネでのエル=バシャさんのマスタークラスへ。生徒は私が何度かレポートさせて頂いた、昨年のPTNA特級グランプリ、鈴木愛美さん。

あんまり言うことがないパターンのレッスンになりそうと予想していたが、概ねその通りだった。技術の指摘がほぼない代わりに、音楽家としての姿勢に踏み込むような、極めて高度な内容になった。

技術よりの指摘は大きくふたつ。
P(弱音)は、F(強音)よりエネルギーが小さいのではなく、Fとは質が違うと捉えること。例えば優しさや柔らかさといった質だ。
もう一つは、音を出す前の身体の動きを設計すること。

前者については、「エネルギーを堰き止めないで」という言葉になるほど、と思った。これまで鈴木さんのPが単に小さいだけと感じたことはなかったが、感じているエネルギーを全て出していない、「堰き止めた」表現、と感じることはあった気がした。それは、音楽に乗り切らないエネルギーを残す独特の演奏効果でもあったが、同時にエネルギーの出口をぐっと絞ってしまい、不自然な呼吸が続くのに似た、聴き手がどっと疲れる感覚はあった。それが悪いというのではなく、彼女の音楽の持つ求心力でもある。

後者については、個人的には鈴木さんは十分意識しているし、出来ているとも思う。半分はより高度なものを、という今への要求であり、半分は、未来の鈴木さんに送るメッセージなのだろう。もしいつか必要になった時、この言葉が助けになるかも知れないから、という贈り物だ。

左手に同音が続く部分では、「音と音の間を整えて」とおっしゃった。「音楽は常に音と音の間にある。私はよく言うのだけれど、オーケストラは表現のための健康な身体の機構であり、指揮者はその魂ではないか。同様にピアニストの手も、私たちのアイディアと魂の、発現のための物なのです。私たちは、音以外を整える学びを、長い一生をかけてやっていかなければならない」

音楽家にとって、ピアノに向かっていない時も音楽は続き、日常のすべてが学びである。エルバシャさんが、その常に抑制されたふるまいを、「長年の訓練です」と言っていたインタビューを見たことがある。怖っと思うが、ほんの何度かお話した経験からも、そのことを痛いほど感じる。そのエレガントさは、生粋というよりも後から意識して身に付けられたものである。

そういうことを積み重ねて行けば、昨日あるピアニストさんも驚いていた、「リズムも強弱も音色も何もしていないのにすごいものが実現する、ペダルを押していないのに、物理的にありえない和声が鳴る」くらいの霊力が身につくのだろうか。

最後に、楽譜の中の特徴的な和音を弾いて、「分かりますね?」と聴衆に問いかけた。ベートーヴェンのアパッショナータの和音である。今日の課題曲だったモーツァルト幻想曲ハ短調k.475は、熱情にも、悲愴にも、もしかすると交響曲5番にも、そして先ほどホールAでエルバシャさんが弾いたピアノコンチェルト第3番にも、豊かに繋がっている。

今日はルイサダさんのマスタークラスも聴講した。必ず通訳を待ってくれるエルバシャさんとは対照的に、日本語英語フランス語交じりに絶え間なく話し、知り合いがいるとステージから投げキスし、大きなジェスチャーで笑いを取るという、多くの日本人がイメージするアムールの国の人、と言った感じで面白かった。通訳の方は大変そうだったが、そのおかげで大変学びになる時間だった。