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花と音楽とカメラ

華道家の平間磨理夫さんと杵屋喜之彦さんのライブパフォーマンスへ。杵屋さんの音楽に合わせて平間さんがその場で花を生けていく。

杵屋さんの音楽は三味線と謡から。見たことのない楽器と声、PAを組み合わせて世界を作っていく。はじめはどうやって音を作っているのか不思議で注目してしまうが、そのうちに音楽はこの場の土台となって溶けてしまい、花だけに集中できるようになる。

予め生けてあった見事な藤を取り去って、八重桜の一枝へ。それが終わるとまた崩してミモザへ。それから白山桜、クレマチス(エールフクシマ)、ポピー、薔薇(なにわいばら)へと続いた。

これは映像作品の収録に立ち合う形のライブパフォーマンスなので、最後にミストをかけた後、光を調整する。花にとって光は湿度なのだ、と感じた。光の具合で、生き生きしているようにも、枯れかけているようにも見える。

平間さんがそうなのか華道家というものがそうなのか、なぜかこの人は必ず、パフォーマンスの中に一度は「不安定な場所に何かを積み上げる」ことをする。不安定さの中の緊張感、刹那の美しさに挑んでいるのだろうか。

今回も小さな花器の上に大きな流木を立たせ、一度は完成したが、その後大きな音を立てて倒れた。二度目に立たせて流木にクレマチスを絡ませた時、一度目よりずっと良かった。
完成形を見ていると、華道家にも気付かれないようにそっと葉っぱが動いて、場所を調整したように見えた。その途端、まるで予め切り抜きしてあった余白の中にぴたっと収まったように輪郭がしっかりした。

意図を持って始め、偶然に導かれて必然へと受け渡す。その道すじの間に、ハンカチを引き抜くみたいに、意図をだんだんと抜いていく。毎回その挑戦をしているのかもしれない。

カメラの映像を映すPCも見える位置に座っていたのだが、カメラを通した映像はすごくかっ良く、なんなら実際よりもある意味では魅力的だった。

しかし最後の、土に立てた竹に生けた薔薇一輪で、光源氏がお忍びで訪れそうな、朽ちたボロ屋の景色が広がるその空気感まで、映像は映し取れただろうか。

映像の可能性と限界を思った。

(2021.4.7)