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音楽の両手

クラヴィコード作家であり奏者の内田輝さんの調律ワークショップ。調律技術というより、音の響きを身体で感じ取り、音に意味付けをせずそのまま味わう訓練の方法を教えてもらう時間。

音を聴きに行く癖が取れず、細かく細かく聞いていくうちに「これ、気狂いそうになりません?」と混乱する私に、「音を聴きに行かないで、音が来るのを待って」と何度も繰り返して教えてくださった。耳がひらくと、それと呼応するように、たった一音の中の豊かな色彩が花開くようだった。

いかに決められた判断基準に従って、音を作り出す側にだけ意識を向けた、片手落ちの状態だったかを痛感した。いい悪いではなく、指向性を持って聴くことと、それらを捨ててただの音として聴くことの、どちらも大切なのだ。内田さんは両方をチャンネルを変えるように使い分けられるそう。同じように音を紡ぐ能力も、受容する能力のどちらも大切。受容体としての機能が高まれば、奏者としてとしての能力も高まる。耳で音を伸ばす、という表現があるが、弾き手が意図した以上のことを聴衆が受け取れることは稀だ。

私は私にとってのピアノにおける神、エル=バシャさんの演奏を、何故自分がすごいと思うのかを長年ふつふつと研究しているのだが、そのピースが一つ埋まった気がした。

私はこれまでその理由を、アレクサンダーテクニークに通用する、身体の使い方だと思っていた。実際公開レッスンで、「その音を奏でるために必要な力だけを用いること」とご本人が説いていらっしゃった。それが恐らく、音そのもののことにも通用するのだ。まず何ものでもない音を認識し、その上に作曲者の意図のみを加える。そして弾き手でもあり聴き手でもある自分を、その両者の中空に置く。

ワークショップの最後に照明を落として静かに音を味わうと、自分が溶けて音の波を観察しているだけの存在のようになった。

出かける前、「何しに行くの?」と聞いた夫に、「起こっていることと、自分の反応の間の一瞬の間隙をすかさず断ち切るという、座禅みたいなことを教えてもらいに行くの」と答えて家を出たのだが、おおむね確かだったと言えよう。

どんな一音もただの音であってはならないベートーヴェンピアノソナタの全曲演奏会をお手伝いした翌日に、すべての音から意味付けを取り外すワークショップを企画するという、音楽の大切な両側面を経験した2日間でした。