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人間は単純か複雑か。それは美の探求か怠慢か。


私は言語学が好きだ。
言語という人が勝手に生み出したものでさえ、そこには何かの法則があって、何かの規則によって変化している。
言語学のある権威は言語を雪の結晶に喩えたそうだが、それは雪も言葉も、多種多様な種類がありながら、自然法則によって形が決定されるというプロセスを取るからだ。

物理を私は高校の時に挫折したが、それでもこの宇宙が一定の物理法則で動いているということには途轍もない美しさを感じる。
少ない法則から多種多様な現象が説明できるという事実は、美しいのだ。


そして、私は人間やこの社会にもそれが言えると思っている。
私が社会学というものに興味を持っているのも多分そういった理由だ。
社会がどういう物理法則で動いているのか、人間がどういう規則で動くのか。それを知りたいのだ。

よく「論理的」の対義語として、「感情的」という言葉があるけれど。
私は感情だって論理的に説明がつくものだと思っている。
少なくとも、感情に依って人が行動する原理は、たとえ合理的に見えなくても、一定のルールで説明できるような気がする。

行動経済学っぽい話になった。多分、ニュアンスは近い。
まったくの未履修なので知らんけど。(魔法の言葉)


だから、私は人と話すのが好きだ。
といってもこの場合、他愛ない話というより、その人の価値観や原体験に触れるような真面目な話をするのが好き、という意味だ。

そうすると、この体験からこういう価値観が生まれ、こう行動するに至ったのかという、その人なりの法則が見えてくる。
それだけではただのn=1のサンプルでしかないが、色んな人と関わって話して、時に自分と比べてみれば、そこから人間という生物の普遍的な振る舞いの法則が垣間見える……ような気がしてくる。だから、楽しい。

そういう好奇心があるから、自分とは全く違う生き方をする人を見かけると、なぜ自分と違うのかを聞きたくなってしまう。考えてしまう。

もちろん人それぞれ生き方は多様である。
なぜならそれぞれの体験が違えば、それぞれの価値観も違ってくる。
それぞれの価値観が違えば、それぞれの行動も自ずと変わっていくからだ。

しかし、どういう体験をすればどういう価値観を得るのか、というその変換の工程においては、何かしらの法則があるように見える。
どんな体験をしていても、全人類に普遍的に備わる欲求(=価値観)があるような気もしている。


…以上が私の人間観だ。
ここまで言ってなんだが、私は人間が別にそこまで好きではない。
醜い人ばかりだし、世界は穢いし、何より自分だって愚かで醜いことを知っているから。
それでも私が人間に興味があるのは、「人間」という現象が美しいものであることをきっと願っているからだろう。

しかし、それは本当に褒められたことなのだろうか。
美への探求などというペダンティックな動機をでっちあげて、人間への理解を諦めているだけではないのか。という声もどこかで聞こえる。


本当は複雑である「人間」という事象をただ単純化して、理解を簡単にしたいだけの怠慢なのではないか?


多様性、多様性と世界がのたまうから、そんなことを考えてしまった。
でも、書いてみて思ったけど多分そんなことないよな。
もう一度言うけど、人間みな同じだなんて思ってない。それは分かっている。

ただ、こういう見方で人間を見ていると、ハナから人間を理解したような気になってしまうような気がするから、それだけは絶対にやめたい。
それこそ倫理に反する暴力だと思うから。
対人関係においてはそこは充分に気を付けつつ。他人から分かったような口ぶりされるのが一番腹立つからね。



ただ、それでも。
複雑で豊かな人間の遍く生を束ねる唯一の紐があるならば、私はそれを知りたいと思う。


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