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映画『トラペジウム』感想



本当につまらなかった。


ただそれだけのことを記事にするのに、色々と考えた。
面白くもない作品に自分の労力を割いてまで、
この作品を好きだと言っている人たちの気分を害してまで、
私はこの感想を記事として公にする必要があるのだろうか?と。

しかし、観てから2週間経っても私の憤りは過ぎ去ってくれず、
むしろTwitterで感想を調べすぎて永遠におすすめに流れてくるようになってしまったため、余計にもやもやし続けており、消化不良の蟠りとなってしまっている。
だから書く。できるだけ最小のエネルギーで。

もちろん、この作品を面白いと言っている人たちのことを否定することに意味があるとは思わない。
だから、そういう人たちは普通にブラウザバックしてほしい。

私は宗教戦争がしたいわけではない。
ただ私は、日曜の貴重な余暇を虚無に奪いやがったこの映画に対して、弔い合戦を申し込まねばならないのである。













改めて言おう。こういうのは言っておかなければならない。
本当に面白くなかった。
自分が劇場で見た映画のなかで、一番面白くなかった。
「大怪獣のあとしまつ」も別ベクトルで面白くなかったが、あれは家でアマプラで見たからまだよかった。

今回は逃げようもない劇場で、私はひたすら90分虚無を見せられていた。
その直前に観た「オッペンハイマー」より長く感じた。
星街すいせいのOPがこの映画で一番面白いところだった。

映画を観た直後は、ずっと擁護する感想を探してはすべてに対して心の中で反論するくらいには、憤りを感じるつまらなさだった。



まず、ここで言っておきたいのは、私は『トラペジウム』を単なるアイドルキラキラ青春アニメだと期待していた訳ではなかった。
というか、Twitterでの酷評をちゃんと私は目にしてから、そのうえでチケットを買っている。むしろ賛否両論と聞いてワクワクして劇場に向かって「どんなひっくり返し(想定外)を見せてくれるんだろ」と胸躍らせていたら、酷評ツイートまんまのものが提示された。

正直これをNot for meと言うのも憚られるくらいには、退屈な映画だった。
でもNot for meと言うしかないのだろう。それくらい評価は綺麗に二分しており、分かりあうことの難しさを感じる。

私は、トラペジウムを好む人がわざわざこんな駄文を読む必要はないと思うが、でも本当はこの作品の良さと主題となぜあなたには刺さったのか、私には刺さらなかったのか、教えてほしい。その違いを知りたいと真面目に思っている。
もう少し年齢を重ねれば、こんな彼女たちの青春も「眩しい青」と思えただろうか? わからない。

ここからは自己満足のために、トラペジウムで気になった点をいくつか端的に挙げて整理していこう。


主人公「東ゆう」の見せ方について

この映画の評価の分水嶺になるのは、おそらくこの主人公「東ゆう」を受容できたかどうか、であろう。
「東西南北」それぞれの名がついた高校から自分よりかわいい女を選出して、「友達になろう」と称して、裏では勝手にアイドルプロジェクトを進めるやばい女。そう、この主人公は普通には共感するのが難しいやばい女である。

だが、別にそれ自体はいい。
問題はその描き方・見せ方である。

この映画は、徹底的に主人公の狂気ともいうべき執念を露悪的に描きながら、しかし一方で「普通の女の子です」と主張し、そして結末はその狂気の行動が許される・受け入れられるというプロットになっている。

目的というか描き方がちぐはぐで、この映画を駄作たらしめている大きな要因だと思う。

この映画のポジティブな評価として、上のようなものがあるが、だとすれば「東ゆう」はもっと振り切ったやばさであるべきだった。
ガバガバな計画性や、自分の利己性に対する自覚のなさ、が「東ゆう」を"平凡でつまらなくてイタい女子高生"にしてしまっている。

例えて言うなら、『DEATH NOTE』の夜神月が全然頭良くなくて、自分のことを悪だと自覚していない、みたいな気持ち悪さと中途半端さが「東ゆう」にはある。月も元々はただの賢い男子高校生だったが、「DEATH NOTE」を持ち、うっかり人を殺してしまったことをきっかけに狂っていく。しかし、狂った後に「俺って悪い奴かな…?」なんてことは悩まない。そして、最後までその「狂い」が物語によって肯定されることはなく、無様な死を迎える。

夜神月の死に際の演説はインターネットでも大人気だが、そういう意味では「東ゆう」の「こんな素敵な仕事ってないよ!」の場面も似たようなきらめきを放っていた(どちらも四面楚歌の中、自分の狂いの正当性を主張している)。
あの"発狂"を『トラペジウム』の見せ場として捉えるのなら、やはりそれ以外のプロットやキャラ造形は失敗だったと言わざるを得ない。


業界と友情、ふたつのご都合主義

前項で、東ゆうは単なる「平凡でつまらなくてイタい女子高生」だと評したが、それは彼女の執念深さに対して計画があまりにも杜撰だったからだ。

だから、彼女たちが一瞬でもアイドルになれたのは作劇上の都合でしかない。
百歩譲って、「東ゆう」を頭が良いキャラにするのを何らかの事情で嫌がったとしても(そのため「計画通り」ではなく偶然でデビューさせるのだとしても)、東西南北がアイドルデビューする過程はもっとリアリティが必要だった。

でなければ、普通はこんな平凡な女子高生はアイドルになんかなれず、早々に他の3人からも見捨てられて、夢破れるのが普通だからだ。
しかし、それを「アイドルになってから東ゆうを挫折させたい」という作劇上の都合で、その挫折をなんとか先延ばしにしようとしている。人間関係の破綻はいつあってもおかしくなかったし(城でテレビ取材の後「友達って言ってほしかった」のセリフの使い方も個人的にはあまり効果的に感じなかった。とっくの前から不穏なのに、まだ「4人に不穏な気配が…」みたいな顔するんだというか)、成り上がり計画は成功する必然性は全くなかった。

一番私が許せない、というか、ありえないと思ったのは
崖っぷちADがただの女子高生たちに番組のいちコーナーを任せたこと
このあたり「本当に業界にいたアイドルが書いたんだよな?」と疑わしく思えるほどリアリティがなかった。
そんな例、テレビで見たことある??
この一億総発信者の時代に、事務所所属でもなく、雑誌専属モデルとかでもなく、インフルエンサーとかでも配信者とかでもなく、ただの一般女子高生に、バラエティ(しかも昼の時間帯?←深夜帯だったそうです)のコーナーを任せるなんてことが本当にあり得るだろうか???
「月曜からよふかし」よろしく、一度街頭インタビューで出て、視聴者からすごく人気が出て準レギュラー化した、みたいな例ならまだわかる。でも、実際にはバイトの時のテレビではほとんど映っていなかった彼女たちが、何の保証もなく「東西南北っておもろそうやから」登場させよう、というのは流石に意味が分からない。

どうしよう、これで本当に「え、実際ありましたけど」とかだったら。
まあ、現実は小説より奇なりということで、腐ったマスコミ業界のなかにはそういう適当なこともなかにはあるんだろうけど()
リアルとリアリティは違うので、ここはもう少し説得力が必要だったよね、と。

c.f. (こちらの記事も真っ当な指摘だと思う。脚本として致命的な欠陥があることについて)


そして、もうひとつご都合主義を感じざるを得なかったのが「東西南北」の友情である。
これに関して、これは「東ゆう」視点の物語だから他3人の背景は多く語られてはいないのだ、という意見を目にした。まあ、確かにそれはそうかもしれない。

しかし、ああいう結末を描くのであれば、「友情」の説得力は必要不可欠だったはずである。
なぜ他3人は最後に「東ゆう」を許せたのか?という疑問は「東ゆう」を露悪的に描いている以上、考察の余地とかではなく、脚本で応えるべきであり、そういう意味で不親切であった。

もうひとつ脚本として拙いと思った点は、
くるみがロボットの水上実験をしたくて、プールのある蘭子の豪邸を紹介するところ。ここを初っ端からダイジェストにした時点で「あ、この映画は友情を見せたい話ではないんだな」と思った。

プロット上、ここはくるみと蘭子の初対面であり、「3人が仲良くなる」という関係性変化の場面である。
これを脚本で、台詞の掛け合いで、エピソードで描かないというのはどうなんだ? ダイジェストの使い方がそもそもおかしい。
結局この4人の友情の根拠が一切描かれないまま(作劇的な演出としては「東ゆう」に騙されているかのように)話が進んでいく。

「東ゆう」に対するほか3人の友情・感情は、ひどい言い方をすれば観客に丸投げをしており、『トラペジウム』を擁護している人たちはそこを勝手に補っている(二次創作的な妄想をしてつないでいる)ように見える。

こんなツイートまで見かけたが、もはや「エンタメとしての出来が悪いです」という告白にしかならない。

追記 6/4 18:20 

私は消費者の読解力をバカにして全部が全部説明する作品もあまり好きじゃないけれど、消費者の感情を動かす上で根幹的な部分を描かないのもエンタメとして評価しない。

でも、昨今の流れと、この作品を取り巻くコミュニティ的、局所的熱狂を見るに、ソーシャルゲームのキャラとストーリーのように、今は「いかに二次創作の種となる要素をコミュニティに与えて、キャラへの狂愛を促進するか」という観点にエンタメの重心が動きつつあるのかもしれない。そこでは、ソシャゲのメインストーリーのみで完結する評価のようなものは、もはや意味を持たないのかもしれない。

https://twitter.com/notname3334/status/1797889704739967246?s=46

追記2  22:40

記事に対しての反応の中で、腹落ちした意見があったので追記させていただく。
私は、前述したような「二次創作的妄想で繋ぎ合わせる」ことの楽しみを否定しているわけではない。ただしそれは、この方の言うとおり「作品(もしくはキャラ)への好感度と信用がいる」のである。
だから「どんな作品でも楽しむためには、鑑賞者側が乗っかるのが大事である」という松原めろ氏の態度と、「最低限、鑑賞者が乗っかりたいと思えるキャラや展開を、制作側が(理想を言えば序盤に)見せるのが大事」という私の態度は矛盾しないし、共存しうる。

ということは論点は「なぜ東ゆうに対して好感度を持って、受容できる人とできない人がいるのか」というところに結局、舞い戻る。究極、私はここの答えが知りたいだけなのだが、反応の多くは「この人はなんで東ゆうの良さを語っているんだ・・・?」みたいなものなので、両者にとって言語化が難しい問題なのだろう。そして、この方のツイートを引用したのは、この方がこの自身のツイートにセルフ引用をして、「トラペジウムがガン刺さりしてる人たちって程度の違いはあれ『いつか東ゆうだった人たち』だと思ってる」という意見を提案しており、素直に面白いなと思ったからだ。
むしろその反対で『東ゆうになりたくてもなれなかった人たち』なのでは?とか私は思ったりもしたけれど。こういう感想の分水嶺が、鑑賞者のどの体験や価値観にあるのかを考えるのは面白い。もしよろしければ、脳を灼かれた方は自分の人生に「東ゆう」がいたのか、彼女に対する憧憬があったのか、もしくは別の何かなのか。逆に私と同じように刺さらなかった方も、「東ゆう」をどう受容したのか話していただけたら、こんな記事も意味があったのかなと僭越ながら思います。
(少なくとも私は自覚のない東ゆうの我武者羅を「泥臭くてええですな~」とか「失敗するのも青春だよね」とは思えなくて、それは自分の何らかの倫理観か、努力に対する価値観が根底にある気がする。ただこれを「中高生の幼さを受け入れられない人の感想」と解釈されるのはなんか癪だ。私はそういう幼さも大好きだし、青春の失敗も、それを「肯定」する物語も好きだよ。論じたいのは、その描き方だ。これは誰かの受け売りだけど、エモは加害の免罪符にはならない。)(どうでもいいけど、伊坂幸太郎『砂漠』では同じように「東西南北」だけで麻雀仲間を集める変な男が登場するが、この作品は「泥臭くてええですなあ」と思えた作品だった。原作者がこれを読んでたかは非常に気になる。)


変化も成長もない、最悪のエンディング

というか、私の意見としては、最後の友情エンディングが諸悪の根源だと思っている。あれさえ抜きにすれば、友情描写を極端に省いても何も問題なかったし、東ゆうの物語として楽しむこともできたかもしれない。

先ほど引用した人の別の感想だが、こういう話だというのは理解できる(この「成功しちゃったら」の部分がご都合的というのは前述の通りだが)。

だが、だとすればあの結末にはならなくないか?

先ほど私は夜神月と東ゆうを接続したが、
東ゆうが無様に自分の狂いを正当化した後、彼女は月が銃で撃たれて死んだように、アイドル人生を絶たれて死ぬ。

月は本当に死んでしまったため、改心することもなく、愚かな人物として息を引き取って物語が終わるが、東ゆうにはその状況物語の挫折を経て、改心の余地があったはずである。

しかし、最後に4人が歌詞を持ち寄って歌う場面。
あそこで90分のプロット、すべてが無に帰すような虚しさが私の胸に去来した。

あの「歌詞を持ち寄る」という行動だけは絶対にあってはならなかった。
なぜなら、あれは東ゆうが「狂い」の中にいた時の、独善的な行動の象徴だったはずだからだ。
相談もなく「自分たちで歌詞を書きたい」と事務所にお願いし、勝手に配分を決め、勝手に「いついつまでにやってこい」と頼む。

ていうか、「歌詞を分担して各々で考えようね~」なんて作り方できる訳ねえだろ殺すぞ。原作者が作詞をなめてるとしか思えない。

いけないいけない、淡々と書くつもりが沸々と怒りが蘇ってきた。でも、ここもアイドルやっていたとは思えない(というか作詞もやっていたとは思えない)雑ぶりで驚いた。

そして、その「東ゆう」の狂い・利己的な部分の象徴の歌詞を3人が持ち寄って、つまりは肯定して、ハッピーエンドとなるのだ。どうかしている。
そもそも「東ゆう」は3人に対して最後、大して謝ってもいないどころか、逆に感謝されて終わりである。

ここが、今まで3人視点での友情描写を避けてきた演出と圧倒的に噛み合っておらず、作中最大の理解不能な点である。


そもそも「東ゆう」は改心していないという解釈も見られた。
改心したのではなく、「可愛い子が皆アイドルになりたいわけではなく、皆にはそれぞれやりたいことがあるのだ」ということを知ったと。これはこれでひとつの成長と言えるかもしれない。

ただ、3人が「改心を望んでいなかった」というのは嘘だと思う。
東ゆうの改めるべきところがそのたった一つの認識だったとは思えない。

そもそも、「東ゆう」は悪いやつであるし、嫌なやつである。
傷つけたと分かれば悲しむ、などと書いているがメンバーに「彼氏がいるなら友達にならなきゃよかった」なんて(かつて「友達って言って欲しかった」と言われた相手に対して意趣返しのように)言い放つのは、お世辞にも性格が良いとは言えない。
もっと言えば、3人からの友情から逆算して肯定的に捉えている人たちは、彼女たちがアイドルになったことで失ったものや傷ついたことを等閑視しすぎてはいないだろうか?と思う。

ついでにもうひとつ。東ゆうについて、

"どうしてもアイドルになりたいから自覚的に他人を相手の都合などおかまいなく利用する悪人になろうと決め、しかし、全然それを徹底できない人間"……なのではなく!!"いろいろ計画して無断でアイドルに引きずり込むことは、アイドルとして光り輝く素質をもったみんなにとっても(結果的に)絶対良いことで、きっと最高に楽しんでもくれるはず!みんなも絶対わかってくれるはず!わかってくれるに決まってる!素敵なみんなと一緒にアイドルやっていきたい!一緒に笑って楽しんで輝きたい!!"と疑いなく信じ込んでしまっていた人間

とあるが、これはおかしい。
だとすれば最初からくるみや蘭子に「友達になりたい」などという嘘をつく必要はなかったはずである。彼女は友達探しなど目的ではなく、最初からメンバーを探していたのだから、「アイドルになろうよ!」と開口一番に言えば良かったのだ。
だって「みんなも絶対わかってくれるはず」なのだと信じていたら、それを隠す意味は全くないのだから。

「東ゆう」の凡人かつ姑息な点は「アイドルになろう」と一言も伝えなかったことだ。それは「アイドルになる」ことが彼女にとって自明だったから、という論理だけでは説明がつかない。そのために嘘をついて策を弄したということは、それを言っても受け入れてもらえないだろうという気持ちがどこかにあったからに他ならない。


そして、何よりそれは。
この物語を「青春もの」と名乗ろうとしたときに、決定的に足りなかったものでもある。

たとえ、表面上だけでも3人から「東ゆう」への感情を書いたとて、「東ゆう」は最後まで3人に対する感情を見せなかった。
そこに相互干渉的コミュニケーションがなかった。

異なる考えや価値観を持つ人と関わる中で、人は否応なしに変化していく。
その変化可能性を「青春」と言ってもいい。
しかし、この作品にはその通じ合い(もしくは、それに至る説得力)がなかった。

最後の東ゆうに必要だったのは、くるみに「じゃあ、もう一回アイドルやる?」と露悪的な冗談を言うのではなく(パワハラした側が言う「あ、これパワハラかw」みたいな露悪さがこの冗談にはある)、「今度もう一回ロボットのこと教えてよ」と彼女たちの「光」(=やりたいこと)に歩み寄ることだったのではないか。そうすることで、彼女たちを「手段」ではなく「友達」と認識できたと見せることだったのではないか。


東ゆうは何も変わらなかった。
この「変わらなさ」が、この物語の徹頭徹尾、虚無で退屈な所以だと私は思う。





















































最後の追記 6/5 9:35

一体、何度追記をすれば気が済むんだ…と自分でも思っている。
昨日からじんわり界隈の人に記事が広まったことで、仕事もままならないくらいビクビクしていたのだが、でも反応は気になるので、ずっと「トラペジウム 感想」でエゴサしていた。
多分それはもう、瞬間風速だけで言えばトラペジウムの制作陣や関係者よりも熱心にエゴサしていた気がする。その結果、当然のことながら少しずつ淘汰できていたTLはまたトラペジウムに染まり、もはや私の脳は灼かれそうである。
そんなことはまあどうでもいいのだけど、こんな駄文の最後にさらに今更蛇足を追記するのは何かというと、こんな記事を見つけたからだ(上に引用したイマワノキワ氏のはてなブログである)。

それなりにnoteの感想は見ていたけれど、はてなブログは見ていなかった。だから、こんなに優良な感想があるなんて全く知らなかった。
今朝これを見つけて「なんだよ…早く言ってくれよ…」と正直思った。映画を観た翌日にこの記事を見つけていれば、多分私がこんなことをうだうだ書く必要もなかったのに、とそう思った。
このはてなブログは私が見た肯定的な感想のなかで、最も正確に制作陣の意図を汲んでいるものだと率直に感じた。私よりも100倍くらい読解力も批評力もあるし、論理の誤謬もない。私がずっと探して求めていたものが、ここにはあった。

トラペジウムのポジティブな感想として(あるいは私の記事に対するネガティブな反応として)「東ゆうに共感できないとか、サイコパスとか、何言ってるんだ?」とか「この映画、そんなに分かりにくいか?(全部説明しなきゃわからんのか?)」とかが散見されたけど、このブログを読む限りむしろ共感なんかさせる気もないし、王道の分かりやすさからも制作陣はあえて外している。それこそこのブログに「重たい十字架を引きずって引きずって、アイドルの神様にもう一度顔向けできる自分になれたかを描くのは、ヒューマニティに溢れたわかりやすいアイドルスポ根物語としてもう一本映画が成立するだろう。だがまーこのお話は、そこを全然描かないんだッ!ほんと、ヘンなアイドル映画だね……嫌いじゃない、嫌いじゃないよ俺は!」とある通り、怪物・東ゆうが人間性を取り戻し、「アイドル」を本当の意味でまなざし、そして「アイドル」に返り咲くまでの物語だって、ちゃんと描くことができたはずである。多分私はそういう結末になると思って期待していたし、それがあってこその破滅、挫折、青春の失敗だと私は思うんだけどね。そこはあえて外しているというのが、制作陣の罪深いところかな。私はこの方の読解にほとんど賛成するけれど、でも結論はあまり変わらなくて、「でもあの嘘の青春ごっこにも"本物の輝き"はあった」とか「最後皆が許せたのも"人間"だし、優しさだよね」という風に(一見して)思わせてくれる描き方ではなかったよな、とは思うという感じ。だからトラペジウムファンの人たちは、目の敵のように初日とかにバズった酷評ツイートを恨んでいるかもしれないけど、あれは私は正しい反応だと思うし、むしろ制作陣の狙い通りだったとすら今は思う。

でも、指摘されている「電車と徒歩の対比」などは本当になるほどと言う感じで、このブログ見たうえで2回目見たら"理解"っちゃうのかな~という嫌な予感めいたものもある。まあでも、もう多分劇場では観ないのでそんなifはありませんが(ミステリー的な構成故に2回見るとハマる、というのは確かに納得ですが、でもやっぱり初見で面白いものが偉いと私は思うので)。

…という訳で、長々と醜くも書いて参りましたが、ようやく自分のなかのトラペジウムに対する気持ちも、憑きが取れたように晴れ晴れしてきました。これで私はついに忘却を許されたような気がします。
なんて言いながら、数か月後に誰かと一緒にアマプラとかで見て、やけに熱狂した再鑑賞記事を書いている自分がいるかもと思いつつ。


















最後の追記 Season2 6/9 01:00

批評において私が最もリスペクトしている人のひとり、まつきりん先生がトラペジウムの記事を挙げたので流石に引用・言及したい。
「自分含め誰も愛せなかった東ゆうが自分を愛せるようになるまでの話」という要約と、究極のエゴイストが他者を“勝手に“救う「逆説の光」こそがアイドルという現象なのだ、というテーマの抽出が本当に巧すぎる。
この批評のすべてに納得したうえで、私は自分の思想として(もしくは理想として)「そんなのはアイドルじゃない」と思ってしまうからこそトラぺジウムが好きではないんだな、とようやく腹落ちした気分だ。
だが、これの原作者は本物の女性アイドルだというところに、この作品の罪深さがある。だってアイドルが「これがアイドルなんだよ」と言っているのだったら、それは受け入れるしかない。そこには、作中のご都合主義に反して、圧倒的な説得力が生まれてしまっている(フィクションと違い、現実はいつだって理不尽で運命的で説明不要だ)。しかし、私が好きだったアイドルは、私が夢見ていたアイドルは、そうじゃなかった。そうあっては欲しくなかった。(ちなみに、私は坂道系や48グループなどのいわゆるリアル女性アイドルは推したことがない。でも、これまで好きにならなかった理由が今回の映画で分かったような気すらした。)
軽率な比較として、【推しの子】のアイを取り上げるならば、彼女は最初、東ゆうと同じように「自分も含め誰のことも愛せない」人間だったが、死ぬ間際には自分を殺したファンの名前もエピソードも覚えていて、殺されているにもかかわらず彼へとアイドルとしてのアガペーを向けることができる。そしてアイにとってのファンへの愛はまさに「嘘」にあったが、これも逆説的ではあるけれど、ここにはファンを救ってやるという明確な「意図」がある。そう、ここでは実在のアイドルを例に挙げるのは控えるが、私が好きなアイドルはむしろ自らがファンを救うことに自覚的であり、だからこそファンを全力で笑顔にさせようと仕事をしていた。…と、どこまで熱弁したところでそれはファンの妄言でしかなく、ファンの自分勝手な期待であると言われたら反論できないのだけれど。

だからこそ、やっぱり「トラペジウム」は嫌いだ。
私たちはエゴイスティックなアイドルをまなざしているんじゃなくて、
ファンがエゴイスティックにアイドルをまなざしているんだから。

私は、いつだってアイドルに夢だけを見ていたいのだ。


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