映画『キリエのうた』に対する違和感
最近の映画面白くね〜!
と雑なことを言うと、世界の半分の人が食いついてきて「そうだそうだ!」「いやそれはお前が悪い!」などと口を出してくるだろう。
もちろんそれを喜ぶような私ではないので、先の発言は今すぐに撤回したい。
今月は毎週映画館に出向いて新作映画を見たが、どれもそこまで面白くなかった。
しかしこれは決して(とも言いきれないが)日本映画(今月私が見たのは全て邦画である)のクオリティ低下の問題ではない。
単純に、私が映画を見る量が増えたのが原因である。
映画を見る量が増えれば、当然名作だけを見ることはできない。
何より私は自分の好みとかそういうものをあまり考えず、話題っぽいものを兎に角観ているので、当然肌に合わないものも遭遇する。
だからこれまで本当に話題になった作品しか観てこなかったにわか未満の私には、そもそも邦画界を嘆く資格などない。
しかし、「面白そうと思って見に行った映画がつまらなかった」という感想を言う権利はある。
今回はそれが『キリエのうた』だったので、自分でも少し整理したい。
尚、私は原作小説も、監督の別作品も見たことがない。シンプルに映画だけを見て思った感想である。それでも読解力の低さゆえに、映画の面白さが理解できなかったのだとしたら本当に申し訳ない。
つまらなかった点は、大きく3つある。
まずひとつ目は「誰の、何の話だったのかが分からない」ということ。
ふたつ目は「不必要なシーン、演出の多さ」。
みっつ目は「主人公たちを追いつめる敵の安易さと 、追い詰められる主人公たちの軽薄さ」だ。
1.結局何の話?
この映画の大きな特徴として、プロットの複雑さがある。
複数人の視点による物語が継ぎ接ぎのように切り替わる。なかには回想の中でさらに回想に入るという、漫画だったらあまりお勧めされない手法も使っている(もちろんワンピース並みに回想が面白ければそれもありだが)。
しかし、この映画は4つの視点を描くことで大きなひとつが見える、といったものになっていなかったと思う。
大きなひとつというのは、端的にこの話のテーマであり、目的であり、ゴールである。
もっと平易に言えば「これはこんな話です」と示すもの、客に対して「こんな風に楽しんでください」と指示するもの、それが序盤どころか最後まで見てもこの映画にはなかった。
公式のあらすじを見ると「愛の物語」とざっくり言っているが、主人公のキリエはこの作品を通して何を得たのだろう? もしくは何を失くしたのだろう。
これは私の読解力の問題かもしれないが、結局そこの変化がないから、クライマックスもいまいち盛り上がらなかったし、カタルシスを感じることができなかった。
2.そこ、そんなに映す必要ある?
説明不足というか、テーマの指示不足の一方で、過剰な演出もまま見られた。
特にわかりやすいのが、ラブシーン。
そもそも、回想のラブ長くね?
(いや、その話はあとでいいか。)
とにかく回想内でのラブシーンの多さ、主演アイナジエンドの下着シーンの長さよ。
キスを絵馬の裏側から撮るところで「なんか凝った撮り方するな~」と思ったが、そこからのキスの長いこと長いこと。
まあキスシーンはともかくとしても、
その後もアイナジエンドの露出はとても多い。
私はそもそも映画のいわゆる濡れ場シーンがあんまり好きじゃない。
それは思想的な理由とかでは全然なく(マンガとかアニメのそういうシーンは大歓迎である)、単純に「あ、この人はこのラインまでOKを出しているんだ」とか「こういう売りで映画界に需要あるのかな」とかそういう裏側の事情みたいなものを勝手に想像してしまうからである。
いや、普段はそこまで過敏に気にするわけじゃないのだけど、今回はこういう自分の性質を自覚させられるくらいには、アイナジエンドの肌を見せようというよくわからない制作陣の意図をひしひしと感じたのだった。
あと、キリエがレイプされかける前、男が結婚詐欺をされたと知る時の演出も、やけに男の狼狽・憤怒の表情を何カメも使って捉えていて、「いや…どうでもいいよ?そこ」と思っていた。
マンガで言えばモブの描写に大ゴマ・変形ゴマを使うみたいな感じ。配分を明らかに間違えている。
3.なぜ公的機関が敵だったのか?
正直、言いたかったのはここだけだ。
これが気になって気になって仕方なかった。
最初の「何の話?」にも繋がるのだが、
この作品で、ハードルとなるのは徹底的に「公的機関」=警察や児童相談所である。
キリエは震災で親を亡くし、ひとり大阪にたどり着き、夏彦が保護しようとするも、児童相談所の手によって引きはがされる。
いっこは結婚詐欺を働き、警察に追われ、最後には騙した男に刺されて倒れる。
クライマックスのキリエのライブも、ライブの許可証を紛失(?)したために警察に中止を呼びかけられ、それでも彼女は歌い続ける。
・・・そらそうやろ!!!
すべての文脈で、「公的機関」の言い分の方が正しい。
監督はもしかしたら、社会からはみ出したアウトサイダーたちの映画を作りたかったのかもしれないが、どこをどう見ても、主人公たちに感情移入できない。
社会の言っていることがごもっともだとしか思えない。
途中出てくる音楽プロデューサーも、キリエのプロ意識のなさをねちねちとした言い方で責め立てるが、この演出の意図もよくわからない。
やはり単純に主人公たちを「逆境にいながら、それでも立ち向かう者」として見せたいだけなのではないか。
もちろんアウトサイダーを描くのは構わない。
しかし、であれば共感できるように描いてくれ。
構図としては「天気の子」も、公的機関/社会の論理vsはみ出し者の映画と言えるだろうが、あっちの方が10倍共感して見れる(もちろん共感できない人はいるだろうし、あれも音楽の力にだいぶ頼ってはいるが)。
夏彦も、いっこも、はみ出し者ではあるが、はみ出し方(の描き方)があまりに陳腐で、私はむしろ詐欺被害者に同情したし、学生で安易に子供を作り、それで距離を取っていた愚かな夏彦に同情はできなかった。その後悔から恋人の妹を守ろうという意図も理解できなかった。
というか、これは震災の話だったのか??
新海誠ばかり挙げて申し訳ないが「すずめの戸締まり」よりも、リアルタイムな震災をドキュメンタリーに描いた割に、その必要性が垣間見えなかった。
「すずめ」が「震災によって負った傷を未来の自分が救う話」なのだとしたら、「キリエ」は「震災によって負った傷がどうなった話」なのだろう?
音楽によって救われた話なのだろうか。
だとしたら、もうずっと音楽の話していればよかったのにな。
感動した人は一体どこで感動したのか教えてほしい。
こんなけボロクソに言った手前あれだが、
音楽は素晴らしく良かった。アイナジエンドは(音楽面でも)初めてちゃんと認識したが、素晴らしい声をしているし、小林武史の表題曲も圧倒的なドラマチックさであるし、楽器の音すべてが心地よかった。
そういう音楽の説得力によって、映画がもっていた部分は確実にあるだろう。
また、映像単品で見たときの綺麗さもまたあった。
終盤の海辺のふたりのシーンや、震災で夕焼けが姉妹を包むシーンなど。
そういうアート的な楽しさはありつつ、
エンタメ的な親切さはほとんど感じられない映画。
それが私の『キリエのうた』に対する感想である。
P.S.
このままではあまりのコスパの悪さに
映画を見なくなってしまうと思った私は、
友達が今年一番面白いと言っていた洋画「グランツーリスモ」を観に行った。
これは確かに(コナンの次に)今年一番面白かった。
洋画をあんまり見ないので、これもまた安易に一般論を語れないが、とても典型的なプロットで至極安心した。
これくらいベタな展開でも人は泣ける。
もちろん技術的で映像的なすごさも込みではあるけれど。
本当に、ハリウッドの脚本術を1ミリも外さないお手本のようなプロットだった。(私はもはや見ながらSAVE THE CATの法則を頭でなぞっていた)
もちろん洋画も複雑な話はきっとたくさんある。
だけれど、マンガよりは確実に映画はエンタメよりもアート化しているし、特に邦画はその傾向にあるのではないだろうか、と思った。
作品よりも監督、ストーリーよりも思想が前に出てきているような。
今年見た「君たちはどう生きるか」「怪物」「キリエのうた」なんかは特に"アート化した邦画"を感じた作品だった。
それが良いことか悪いことか、大衆に望まれているのか望まれていないのか私は知らないけれど。
ただ、少なくとも私の期待する創作物ではない、という話だ。
私はメッセージ性の強い作品も好きだが、エンタメという回路を経由してそれを伝えてほしいと思ってしまう。
むしろその方が、人を楽しませながらの方が、人にものを伝えられるのでは?と私は思っている。
私は(大半の)批評という文化が好きだが、映画館にいる時よりも、帰りの電車で批評を読み漁っているときの方が楽しい映画体験は、そんなに健全じゃないよなと思う。もちろんそれは、私が頭悪いせいというのも十二分にあるんだろうけどさ。
そんなわけで、皆、「グランツーリスモ」を見よう!
(もう殆ど終映してるけど)
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