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ツユ

カタカナは冷たい感じがして好きくない。
ひらがなは温かくてすき。漢字は半々。
最近、「承る」の「承」という字にハマっている。ワープロではなんてことないけど、手書きで書くとどこかかわいくて美しい。


梅雨は嫌い。
自分が生まれた季節のくせに。
温度よりも湿度の不快感の方が絶対高い。
住んだこともないけど、沖縄に住んだ方が絶対快適だよって毎夏思ってる。温暖湿潤気候許すまじ。
だから、エアコンで除湿をよく使うんだけど、どこかで冷房より電気代が高くつくと聞いた。てやんでい、そんなことあってたまるかよ。どういう理屈だ、と思った。それでも冷房は寒すぎるから除湿にする。それでもちょっと寒いけど。毛布にくるまってねる。


SNSはちょっと苦手。
特に最近はフォローしてなくてもランダムで色んなものが流れてくる。
だけど、その内容はどこか見たことあるものばかりで。同じで。「またかよ」となぜか苛立つ。
疲れたら休もう、美味しいご飯を食べよう、人と比べるのをやめよう、自分を好きになろう、とひたすら「私」を甘やかす言葉たち。
皆同じものを求めてるから、同じような言葉が生まれるのか。私が単純化して見ているのか。
私が私を愛そうが憎もうがどうでもいいでしょ、愛さなきゃいけないと言われるとなんだか癪だ、と私は思う。
それでも、日々の仔細を共有することは三大欲求に勝るとも劣らない根源的な欲求であるらしく、SNSはやめられない。


最近は、非常にふわふわした時間を過ごしている。
思えば、1年も前から1年後の自分の次の立場が確定していることなど人生の中でそうはない経験だろうと思う。
受験でいえば、基本的に結果がわかるのは3月だった。故に、それまでは未来のことなど考えず、ただ目の前の試練に向き合えば良かった。
未来の居場所が確定する頃には、未来について不安や期待を抱く暇もなく、次の春はやってくる。
しかし、就活において、入社直前の3月に就職先が決まることなどほとんどない。私に至っては4月に確定したのだから、ほぼ1年間、未来の居場所についてあれこれ考える時間が与えられた。無駄だ。
部署。残業。年収。昇進。税金。上司。同期。
無駄なことばかり考えて、今を疎かにしてしまう。時間のある今を大事にしたい。
とはいえ、確定した未来を不確定にしないためにも勉学には取り組まないといけない。


歌を作ること。作曲。作詞。編曲。
小説を書くこと。プロット。キャラ。世界観。伏線。描写。
何かを「つくりたい」「とどけたい」という気持ちばかりが先行している。
気持ちだけ逸り、行動が全然伴わないことに苛立つ。DAWを開いて、未完成の曲をリピートして聞いて、ワンフレーズ打ち込んで、やっぱり消して、DAWを閉じる。
理想が高いんだろうなと思うけれど、つまらないとわかっていて創作を続けることほどつまらないこともない。
だから、自分の作品が下手だと気付かず作り続けられたあの頃はある意味幸せだった。その方が上達は早い。
しかし、何かを作らないと、何かを完成させないと、何かを誰かに届けないと、私が消えていくような気がして、怖くてたまらない。
ここに私がいると叫びたい。しかし、言いたいことなど、歌いことなど、そう多くはない。否、沢山あっても、それを綺麗な形にするような気力がない。なんとも悲しい話だ。

プロットだけ書いた小説。
ピアノだけ付けた歌詞とメロディ。
書きかけ、タイトルだけのnoteたちがそこらじゅうに散らばる。

未完成の「私」ではいけないだろうか。
10個集めて1つと交換出来るおまけみたいに、未完成の「私」を紡いだら、何か作ったことにならないだろうか。

そして、今日も私がここに生きていたと、誰か認めてはくれないだろうか。



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