南アルプスの滝にて

新東名の森掛川インターを降りて北上した。
南アルプスの裾が拡がっている。
目的地はとある滝。
当時私たち夫婦はパワースポットをめぐる旅に凝っていて、その滝も隠れパワースポットとして地元ラジオで紹介されていたものだった。

ナビの言うままに走ってたんだけど、どうも調子がおかしい。
右に曲がれと言うのだけれど、目の前の車窓もどうみても1本の林道があるだけで右折できる道はない。
「右です」
「右です」
「右です」
何度もリルートを繰り返し、曲がれと言い続ける。
無機質なナビの案内音声がさすがにうるさくなり、夫がナビを切った。
「山登ってるから方角は合ってるはず」
そのうちに看板出てくるから見といて、とそのまま林道を走った。

30分は走っただろう。
林道はカーブを何回か繰り返していく中で、ガードレールもセンターラインもなくなった。
助手席側は断崖絶壁になり、落石注意の看板すらなくなった。
かろうじてアスファルト舗装ではあるが、山道を登るにつれて振動が激しくなる。
川根や井川のほうなど南アルプスの南端をよくドライブしていたけれど、これはなかなかの酷道だねと笑った。

カーブを越えた先、まっすぐ続いていた林道が突然途切れた。
田んぼがひろがる。
「なにここ」
「あれじゃない?椎茸集落じゃない?」
「椎茸集落ってなによ」
「静岡によくあるって聞くよ。獣道の先にある豪華な家は椎茸で財を成した椎茸一族の住む地だって」
椎茸集落か、なんかお土産に買って帰ろうかな、なんて笑いながら話していた。

しばらく走り、田んぼを抜けた先はT字路になっていて、いくつかの家屋が並んでいた。
左は通行止めになっていて、右にしか曲がれなかった。
その交差点にあるいくつかの家屋のうち、そのうち特に大きな、真っ白の壁の家があった。
椎茸集落の椎茸御殿かしら?白い漆喰の住宅なのかな?と目を向ける。
白い漆喰ではなく、白い紙人形が窓と壁を全て埋め尽くしていた。

なんとなく嫌な予感のようなものがあった。
不気味な感じがした。
この先に本当に隠れパワースポットとされる滝があるのか、さすがに不安になってきた。
ナビはいまいちあてにならないので、グーグルマップで地図を出そうと思ったが圏外だった。
さっき峠では電波はいったけど谷間じゃ仕方ないね、と車を止めた。
道端で農作業をしてるおばあさんに尋ねてみよう、と助手席側の窓をあけて声をかけたのだが。
「お仕事中すいません、道を伺いたいのですが……」
「アハハハハ!!アハハハハハハ!!」
突然の奇声にびっくりした。
奇声というか笑い声に近かった。
「アハハハハ!!アハハハハハ!!!!」
おばあさんはこちらを見て、明らかに笑っていた。
義眼のような眼に真夏の太陽が反射して、変な光り方をした。
怖さより驚きが勝って面を食らってしまった私は「すいません」と言って、窓をしめる。
「えっ何あれ?なんだったの?」
と運転してる夫に声をかけた。
が、その夫の様子がどうもおかしい。
運転しながらも、サイドミラーにうつる田んぼを気にして見ている。
「どうしたの?」
「道端に人いる?」
言われたままに見てみたけど、人はいなかった。
田んぼとその先に山が拡がるだけだ。
紛らわしい案山子のようなものもなかった。
「いないよ?」
「じゃあ後ろは?」
「後ろ?」
「さっきのT字路入ったときからずっと、変な子供がついてきてるんだ」
えっ、と思わず振り返った。
振り返っても誰もいない。
誰もいないのに、バックミラー越しで確認すると確かに子供がいた。
白い子供が2人、3人、4人。
「いるよね、子ども。何人かいるよね」
鏡越しだと確かにいる。
でも、ともう一度振り返るといない。
一体どういうことかと考えた一瞬だった。
夫はアクセルを強めに踏んで急加速した。

車は猛スピードで集落を抜けてまた山道に入った。
「ちょっとちょっと、スピード出し過ぎじゃない」
夫の様子が明らかにおかしい。
しかしハンドルを握っている以上、無理に止めることができない。
シートベルトを握り打開策を考えていると『〇〇滝入り口』と書いてある看板が目に入った。
Y字路の谷間の部分に捨てられているような看板は、滝の名前の部分は朽ち落ちており判読できない。
どちらも山に向かっているけれど、明らかに左の方が舗装されている道だし……と思ったら、夫は逆の右方向にハンドルをまわした。
それはもはや獣道に近かった。
車がギリギリ入れる狭い林道だった。
勾配はきつく、エンジンが悲鳴をあげていた。
「こっちじゃない!危ないよ!!ねえ戻ろう!!」
木の枝が車体を擦って嫌な音がする。
嘘でしょ、どうするのこれ――と夫の表情を見たときに、思わずヒッと声が出た。
目元はボンヤリとしていて、口元だけ笑っていた。
笑っていというより歪んでいた。
何かうわごとのようなことを呟いていたけど、何を言っていたのかわからなかった。
と、反対側の助手席の窓をみて、さらに悲鳴が出そうになった。
ほんの30秒程度だったと思うのだけれど、どれだけの距離を登ったのかってくらいの断崖絶壁があった。
ハンドルわずかでも間違えたら真下に落ちる、と身体が強張った。
その瞬間、急に怖くなった。
夫は変になってしまった、ここがどこだかもわからない。
こんな山奥、見つけてもらえるかもわからない。
いやだ!しにたくない!
「マジでやばいって!!ばか!!!しっかりしろ!!」
思わず夫の顔面に水をぶちまけた瞬間、なにかはじける音がした。
「……え?ええ??なに?なにこれ?」
「うわっちょっとなにこれ……え?なにここ?ちょっとええ?!はあ?!」
どうやら夫は正気に戻ったようだった。
この細い獣道を降りなければならないことら夫もすぐにわかったらしい。
慎重にゆっくりハンドルを切りながら後退した。
急勾配の山道の後退、何回か石に乗り上げて前輪が空転。
とにかく怖かったが、祈るしかなかった。

アスファルト舗装の最初のY字路に戻ったとき、思わず深い深呼吸をした。
一安心して見上げたときにまた驚いた。
Y字路の谷間に案内看板なんて何もなかった。
呆然としていたら、左側の山の奥の方から一台の軽トラがやってきて停車した。
右側に頭を向けている私たちの車をみて、助手席側に座っていた爺さんが声をかけた。
「おめえらそっちの道は崩れて危ねえから入んじゃねえぞ」
爺さんたちがそのまま集落の方へ向かおうとしたので、呼び止めた。
「ここに来るまでの途中の集落、人がいっぱい外に出てたんですけどお祭りか何かですか?」
「馬鹿言うな、このクソ暑いのに祭りなんかやるか」
人がいっぱいって、何言ってんだろな。
暑さで参っちまったんじゃねえのか。
軽トラの爺さんたちの会話が聞こえた。
軽トラは大きなエンジン音をたてて集落のほうへ走り去っていったが、私たちはしばらくその場を動けなかった。

「滝、どうする?」
「……滝はいいや、なんか疲れた。帰ろ」

軽トラの後を追うように元来た集落の方へまた車を走らせた。
違和感が込み上げる。
バックミラーについてくる子供の姿もない。
急に笑い出した婆さんもいない。
紙人形が埋め尽くしていた白い家もない。
最初にこの集落に入ったT字路も見つからなかった。
というよりそこは集落ではなく、いくつかの廃屋だった。
走ってきた林道に戻る道もない。
田んぼの合間の道をしばらく走ると、2車線の県道に出た。
そこをまた30分くらい走って、やっと市街地まで戻った。
夫は疲れと緊張が混ざった様子だけれども、あの不気味な表情をすることはなかった。

インターを降りたのは確か10時前だったと思う。
県道に戻った時、時刻は13時をまわっていた。
3時間も経っていたのか、と驚く。
ひどく汗をかいていて空腹だった。
いったい何が起きていたのか。
私たちは本当に暑さで頭がおかしくなっていたのか。
それともあの集落は異世界だったのか。
異世界ならば私たちは戻ってこれているのか。
ふと車窓に目をやると、そこにはいつもの富士山がある。
富士山は富士山なのだけれど、何かが違う。
いや、気のせいだ、きっと軽く熱中症だったんだ。
さっきから夫がなにかブツブツ言っている。
あれ、この人の顔こんなだったっけ──とぼんやりと車窓に目をやる。
きっと気のせいだ。
バックミラー越しに白い子どもが見えているけれど、それもきっと気のせいだ。


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