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「1年12ヶ月・春夏秋冬」を定義付けた秦国丞相・呂不韋 〜商人から総理大臣へと上り詰めた男が目指したビジョン〜

10月に入りまして気温も大分落ち着いてきたこの頃。私の方はと言うと本日はネギの収穫と調整後にネギの圃場の草刈作業を行いまして、来週中には通路に小型耕耘機を転がそうと考えております。

ただ今、2020年の10月3日ですが、1年を春夏秋冬、12の月に分割し、その月ごとに行う行事を定義付けた人間がいます。その名は「キングダム」や「達人伝」でもお馴染み、呂不韋。現代日本においても前述の「十二紀」が採用されていて、如何に呂不韋という人物が商人としての枠を飛び越えた傑物だったのかが伺えます。

そんな人物が中国大陸の西端から生まれた秦が「秦こそが文化の最先端だ。俺たちが武力だけだと思ったら大間違いだ」ということを全土に知らしめるために編纂した書こそが「呂氏春秋」と呼ばれるものです。「呂氏春秋」を読んでみた結論としては、呂不韋は秦を中心とした民主主義国家を作りたかったのではないかと感じさせられました。結果、嬴政と権力争いをすることとなり、最終的には三国志の劉備玄徳の拠点である蜀まで流刑されることとなり、自分が殺されることを悟った呂不韋は服毒自殺するという最期を迎えることも知られた話であります。

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出生は不確かな部分が多いですが、一説によると元は戦国七雄の韓の商家出身であるようです。呂不韋は商売人として成功を収めていました。趙の首都である邯鄲で商いをしていた時に後の始皇帝・嬴政の母であり、その時、「君の妻の趙姫を自分にくれないか」と後の嬴政の父親である荘襄王が呂不韋に懇願してきて、多額の金額を投資してしまっているため荘襄王に差し出します。これが有名な「奇貨居くべし」の故事です。

「優れた文字はカネよりも価値がある」という意味の「一字千金」の故事も呂不韋から来ており、呂不韋がいた事で嬴政は中華統一の足固めをすることが出来たとも言えますし、ただ、呂不韋と嬴政を袂を分かったのは中国をどうしたいのかというビジョンの違いによるところが大きかったように感じます。

嬴政は「キングダム」でも述べられているように中華統一を武力で成し遂げようとしている。一方で呂不韋は「呂氏春秋」の中でも記述がありますが、中華を統一するということに関してはどちらかと言うと消極的で、民主主義国家のようなイメージを持っていたのではないだろうかと思われます。どちらが間違っていたという訳ではなく、呂不韋の考え方や感覚があの時代においては進みすぎていたことに加えて、受け入れるだけの時代的な素地はなかったように感じます。何より、その時代を生きた人達の望みは550年近く続く戦いを集結させることだった訳ですから、時代は嬴政を選んだということでしょう。

「呂氏春秋」は素晴らしいなと思うこともいくつも書かれていますが、いつの世も分かってはいるけれどもその時々の現実と理想のすり合わせが難しいことこの上なく、常に移り変わっていく時の流れの中で価値観や状況も変わっていく。実現が難しいことも多々あるでしょう。ただ、この「呂氏春秋」が人の営みに欠かせない四季や十二紀を定義付けて、僕らの生活と、政治の動かし方に大きな影響を与えたのは言うまでもありません。

あの時代において呂不韋が果たせなかった民主主義国家の理想の夢は果たせているのかどうかは分かりませんが、呂不韋が権力闘争に勝利していたとしたら中華統一は100年ほど後の時代になっていたのかもしれません。

「1年12ヶ月」という不変の法則の前に比較しても、栄華は儚く脆い。だけども、呂不韋が残そうとしたものは後世に伝わっていることは確かです。最後に残るのはお金でも、名声でもなく、その人の生きた証や存在なのだと思いますし、呂不韋の人生と「呂氏春秋」を読んでいたら尚更そう思わされます。

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