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ながい ながい 黄昏

「大変申し上げにくいのですが」
白衣を着た初老の男性が、カルテに目を落としたまま、こちらも見ずに淡々と告げ始めた。私はその態度に少し苛立ちを覚えつつ、申し上げにくさの要因を思って覚悟する。

「あなたの余命は200年です」

200年。

200年?

「200日、ということですか」
半年以上はあるが、何かを成すには短すぎる。さて、何から手を付けたものか、まずは計画を練らねばなるまい、そういえばそういう映画もあったな、あれは金持ちだから成り立つものだったが、とりあえずリストを作るのは悪くない、などと瞬時に考えを巡らせていると、医師はようやくこちらに向き直って、少し強い口調で言ってきた。

「200年。日数で言うと7万日以上ですよ」
馬鹿馬鹿しい、と言わんばかりのため息と共に、再びカルテに視線を戻す。

「あなたはね、どうやらおかしな病に冒されているんですよ」
「今流行りの『長生き病』 聞いたことはあるでしょう」
「まったく不可解な話だ。ありえない」
憤懣やる方ない思いを隠そうともせず、彼は吐き捨てるように、またそんな態度を取ってしまう自分にも呆れたように、ぶつぶつと繰り言を呟いた。

俗に『長生き病』と呼ばれる免疫不全と様々な合併症による不思議な症例の話は耳にしたことがある。発見からまだ日が浅いこともあり、眉唾な与太話として位置付けられているという印象だった。

目の前で悪態混じりに話してくれる医師によれば、悪性腫瘍、所謂ガンに対しての様々な治療を横断的に行った結果として、人間の老いのシステムまでも破壊してしまい、副次的に半不老不死の肉体へとその体を作り変えてしまうということらしい。

「こんな馬鹿げた診断をせねばならないとは思いませんでしたよ」
「ともかく、あなたは今健康ですが、類まれなる病です」
「死ぬとしても事故死や殺される以外の可能性は低いでしょう」
「せいぜいおだいじに」

放り出されるように病院を出ると、私はとりあえず途方に暮れた。
胃に根付いたガン細胞が転移をくり返して体中を蝕み、幾度となく生死の境を彷徨った。考えうる治療法はすべて、民間療法やオカルトじみたものにまで手を出した。今のこの状況はその結果だ。

そう。結果だけ見れば、これは十分に改善されたと言える。もう私の体に忌々しい病巣はない。喜ばしいことじゃないか。

だが、本当にそうだろうか?
医者は不老不死という言葉を使った。齢70を超え、若返る訳でもない不老不死とはなんだ? ガタの来た体を延々と持て余す200年。悪い冗談としか思えない。

病院の入り口前に置かれたバス停のベンチに腰掛け、幾度目かのバスを見送る。晴れていた空が曇り出すと、すっかり肌寒くなってきた。一旦病院へ戻ってコーヒーでも飲もうか、それとも街へ出てみようか、思いあぐねていると、目の前に軽自動車が停まった。車体には「水廻りのトラブル、万事解決!」とある。そして、運転している男には見覚えがあった。

「先生!先生じゃないですか!」
車の窓越しにそうにこやかに語りかけてくる彼が、誰であったか思い出すのには数分を要した。その間、彼は久々に会った恩師に対して、自らの正体を敢えて喋らないつもりらしく、決定打となる情報は何も出てこない。

結局、彼の作業着に着いた名札を手がかりに、記憶を手繰ってようやく思い至る。「ああ、時津くんか、久しぶりだね」

時津なにがしだったかは思い出せないが、とりあえず彼からどこで先生と呼ばれていたのかは思い出せた。中学の教員時代、始めてクラスの担任を受け持った頃だ。あまりいい印象の生徒ではなかったが、良くも悪くも目立つ人間だった。

物事には率先して参加し引っ張っていく割に、ソリの合わない相手とはすぐに仲違いしてしまう性格。そして、最後にはいつも孤立してしまう。その度に担任として幾度かのアドバイスをしたような記憶もあるが、それが助けになった印象はない。

「いやぁこんなとこでお会いできるなんて、思ってもいませんでした」
車を停留所の端に停めて車から降りてきた嬉しそうな彼の顔を見て、もうひとつ思い出した。そうだ、私はなぜか彼に懐かれていたのだ。

屈託のない笑顔で当然のように隣に座ると、自分が病院へ来た理由を説明してくれた。回りくどい言い方だったが要は母親が入院しているらしい。仕事中じゃないのかと問うと、裁量労働制なので今日はもう休みにしたという。

「実は3年ほど服役していまして、去年の暮れにようやく」
仲間と興した会社でそれなりの業績を積み上げたものの、運営方針で衝突してしまい、不正な財務処理の濡れ衣を着せられて罪に問われたらしい。今は知り合いの工務店で、下請けの水道工事をやっているとのこと。

そうか、時津くんならありそうな話だな、と思った通りのことを言ってしまい、流石にひどい物言いだったと後悔していたら、彼はまったく意に介さない表情で、ええそうなんです相変わらずで、とまた笑顔。

ふと、彼が私の病状を聞いてどういう反応をするのか知りたくなった。
「時津くん、長生き病というのを聞いたことがあるかい」
「いえ、存じ上げません。それは、病気なんですか?」

自分がその病であることと、医者から聞いた薀蓄をひとくさり伝えると、彼は目を見開いて驚き、そして喜んでくれた。

「つまり、先生のガンは治ったということですよね。おめでとうございます!」
「治ったわけではないけれど、症状はなくなった、ということだろうね」
「それで十分じゃないですか。しかも寿命はあと200年だなんて」
「正直、200年も生きていたくはないな」
「この際、仙人にでもなられたらいいんじゃないですか」
「今からアウトドア派に転向しろというのかね」
「そうです。やったことがないのなら、尚更ですよ」

おそらく彼の性格から考えて、本気でそう言っているのだろう。
そういう闇雲な前向きさが当時、苦手だったのだ。
けれど。

「そうだな。失敗してもやり直せる時間は、たっぷりある」
「そうそう、羨ましい限りです!」

今までとは正反対の新たな不安と向き合い、すっかり虚ろになっていた気持ちが少しずつ前を見始めた。

そろそろおいとまします、先生に今日会えてよかったです、と家路につく時津の車が遠ざかるのをなんとなく眺めていた。気づけば日は暮れ始めて、空は高く晴れて穏やかな紫のグラデーションがビルの隙間に落ちていく。もうまもなく星も見えるだろう。

教え子に諭されたと思うと少しばかり気恥ずかしさもあるけれど、あれは応援なのだと思えば、期待にも応えたくなる。言いしれぬ不安は相変わらずではあるけれど、長過ぎる人生に飽きてしまうその日までは生きていこう。

まぁ、仙人になるかはともかくだけれど。

2020/10/10: 「それでも生きていかざるを得ない」から「ながい ながい 黄昏」へ改題しました。

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