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【コラム】ゲーム開発昔昔物語

noteにはゲーム開発に関わる様々な職種の方々の色々な記事があって、日頃からとても興味深く読ませて頂いています。んで、読んでる内に「今」の開発というのが、過去に自分が携わった開発とはかなり変化しているということを改めて感じました。

この過去というのがどのくらい前かと言うと大体20年ほどなので、ドッグイヤーな業界ではもう太古の昔と言ってもいいんですが。
一応、ハードで言うとスーファミ、メガドラ辺りからサターン、PS頃までになります。

そんな訳でおよそ何かの参考にはなりそうもないですが、歴史の一欠片として、昔々のゲーム開発がどんな感じだったかということをつらつらと書き綴ってみたいと思います。

※あくまで個人の思い出です。開発会社毎の差異も大きいと思います。

開発会社について

具体的な名前を出してもそんなに困らないとは思うんですが、一応伏せておきます。マイコン時代からある地方のソフトハウスで、1980~90年代に連綿と続いた根強い人気のシリーズ作などを開発していました。

開発期間

1タイトル辺りの開発期間は大体、半年~1年半ほどで、研究開発タイトルも含めて常時2ラインは動いていたのでかなり早いペースだったと思います。
なので、在籍期間10年で関わったソフトは16本位。世に出なかったものを含めたら20本位でしょうか。

ゲームの規模も大きくなり、開発の長期化が叫ばれる昨今。スマホ領域に於いてはそもそも終わらない、終わった時はサービスが死ぬ時、という状況でしょうから、1年程度なら短く感じるかもしれませんが、当時は結構長く感じたものでした。

開発体制

基本的にはプログラマー、グラフィッカー、サウンドの3職種。プランナーやディレクターという職種は特別に分かれておらず、上記の基本職者が兼任という形です。なので、企画を出したものが職種を問わずプランナーになり、自分の担当範囲をやりつつ企画の先導も行います。

私の職種はプログラマでしたが、プログラムだけを組むプロジェクトは稀で、敵の動きや配置、演出考案、モーション設定、カメラ設定、シナリオ作成、企画立案、グラフィック編集も状況によってはやりました。
インディーズならともかく、今ではあまりないことかもしれません。

これは(開発部内では)そんなに特殊なことではなく、できる範囲のことをそれぞれが行う、という暗黙の了解がある程度あったと思います。

ただ、音に関しては専門性が高いため(もちろん他の職種もそうなんですけど)、当時からサウンドスタッフは別働隊、という印象でした。

実際の開発

企画が立ち上がるとまず、企画者を中心としてチームが編成されます。大体はグラフィッカーが企画を立てるので、グラフィックチームが先にまとまって、手の空いているプログラマがそこに参加するという具合です。サウンドは並行して複数の企画に関わっていたりするので、個人的には常に助っ人感がありました。

最初にメインプログラマとグラフィッカー数人の、企画者を含むごく小さいチームがゲームの基本的な形を作ります。企画者はゲーム全体の流れや要素を概ね確定していきます。この段階で色々と問題が見えてきて路線変更を余儀なくされることも多いのですが、とにかく動かすところまで。

次にある程度形になったところで他のチームメンバーが合流して、企画者が立てたスケジュールや分担表を元に作業を割り振ります。

例えば、とあるシューティングゲームだと1面丸々をプログラマとグラフィッカーそれぞれひとりずつが担当していました。雑魚敵の動き、ボスの動き、ステージ内演出や展開など、内容は多岐に渡りますが、概ねPG担当の裁量とGP担当の懐の深さで出来上がっていきます。

このやり方は、ステージごとのテイストがきっちり分かれたり、各ステージ担当者同士の切磋琢磨が如実に反映されたりするので、当初のモチベーションがかなり持続します。やっぱり自分の担当ステージは、他のステージに見劣りしないようにしたいものですからね。

グラフィッカーは企画者からステージの概要を伝えられた後、背景とそこに登場する敵キャラすべてを作ることになります。背景は演出とも密接に関わるので、イメージしている演出が実装可能か、プログラマと侃々諤々します。プログラマも「できない」というのは沽券に関わりますので、それとなく実現可能な形を提案していき、最終的にちょっと頑張らないと実装できない辺りに落ち着く訳です。

グラフィッカーから敵のグラフィックデータを頂いた後、細かい指示を貰うことはあるのですが、紙資料などはあんまりなく、大体は「いい感じに動かして!」というものなので、こちらでグラフィックのイメージを頼りに動きや配置を作っていきます。
その際にこちらから、もうちょっとこういう動きをさせたい、という場合は追加でパターンを描いて貰ったり、簡単なものは自分で描いたり。一番楽しいところです。

貰ったグラフィックパターンを駆使して、グラフィッカーの意図してないものを作って驚かせるのもまたひとつの楽しみでした。まぁやりすぎたら流石に却下されるのですが。

レベルデザイン

当時はそういう言葉自体がまだなかったんですが、今で言うレベルデザインについては、開発後半で手の空いたグラフィッカーチームが担当して全体の調整を行っていました。ひとつひとつパラメータを弄っていく、完全に職人技の世界です。

ここでは実際にテストプレイヤーの反応なども見つつ、より面白いと思う方向へ向けていくのですが、やっぱり自然に難易度が上がってしまうため、最終的に難易度を1段階ずらして、更に1つ簡単なモードを作る、なんてこともありました。

デバッグ

デバッグプレイに関しては、効率の良し悪しはともかく、基本的にそれほど変わっていないと思います。延々、プレイしてレポート書いてチェックして直してのループ。自動化などとは無縁の時代です。

アルバイトのテストプレイヤーがメインですが、手の空いた開発スタッフが気晴らしがてらにノコノコとデバッグルームに行き、担当外のところをプレイして難易度に驚愕する、なんてこともよくありました。あと、なぜか開発スタッフがプレイすると今まで見つからなかったバグが見つかる、なんてことも。特に完成したはずの自担当箇所を遊んでて見つけたりするとJIGOKUです。

そして完成

なんやかんやの紆余曲折を経て、ついにマスターアップ、ソフト発売となります。当時はダウンロード販売なんてTAKERUやニンテンドウパワー位のものでしたから、売り出されたらもう直せません。バグが仕様になる瞬間。戦々恐々としながら、各種ゲーム雑誌のレビューを読んだりしたものです。もちろん、掲載された雑誌は全部買ったりしていました。

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以上、もう20年前のことですので、美化された部分もあるかもしれませんが、大体合ってると思います。思えば、会社というよりはもっとゆるい何かに所属していたような気もしています。

世は移ろい、色んなものが様々に変わってしまいましたが、作ったものはただそこに残っている、ということが今となってはとても心強いものだなと思っています。そして、未だにそれが誰かの口の端に上っていることも。

ともあれ、老頭児の昔語りにお付き合い頂きありがとうございました。

ハー どっとはらい

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