見出し画像

子育てで大切にしている一つのこと


こんにちは、clusterでクラフトアイテムやワールドを作っているかずらです。
それは趣味でして、本業は主婦、今回そっちの話です。

親の心が満たされるには


人間を育てるとは、どういうことだろう。
長年やっているが、未だにその難しさに日々迷っている。


どう対応したらいいのかわからず戸惑うことばかり。

子供は人間で、ひとりひとり違う。時代も移り変わり、価値観も変わっていく。

人間は理解しようにも理解しきれない。
私は子育てに慣れることはないだろう。

わからないことだらけだ。


子供を育てながら、私も育てられた。
たくさん考えて生きるようになった。
自分を見直して生きていけるのは幸せなこと。

ゴールがあやふやなこの道を、まだあと十数年歩んでいく。


趣味はメタバースのワールド制作



そんな中で、感じる一つのことは、

子育てで第一に重要なのは、「親の心が満たされていること」だということ。


人は満たされた分だけ、人を満たすことができる。
親が満たされていれば、子供の心を満たすことができる。
満たされた子供は精神が安定して、良いものを親に返してくれる。

それを受け取って、親はまた心が満たされ子供を満たしていく。
この循環が理想的。

私は母親としての経験しかないので、おもに母親目線で書かせて頂く。


母親は忙しい。常にやることがいっぱい。子供がいるということは、育児に加え家事も増えるということ。
とにかく時間に追われる。


子供をちゃんと育てたいと思えば思うほど、子育ては複雑になる。
ちゃんと食べさせなければ、ちゃんと寝かせなければ、ちゃんといい子に、ちゃんと行儀よく、ちゃんと賢く、ちゃんと迷惑をかけないように…キリがない。やるべきことにキリがないのだ。

「ちゃんと」は曖昧だ。

ここまでやればOKというラインがない。
だから達成感もない。
ここまでできたという実感もない。
他の人に認められることもなく、自分のことも認めにくい。


世間はどうか知らないが、夫はその「ちゃんと」の部分があまりなく、適当にやれてしまう。適当にものを買い与え、適当におやつを与え、自分の世界を保ちながら片手間で子供の相手をする。
そりゃ楽なわけだ。

面倒な「責任」は母親に丸投げ。気楽なものだ。
(※夫は家事の多くを担ってくれるよき夫です)


母親はひとりでその子育ての「責任」を背負い、孤独を感じながら子供を「ちゃんと」育てようとする(ことが多いと思う)

母親の心を満たしてくれるのは、どうやら夫ではないようだ。

期待しても不満が溜まるだけなので期待はよそう。


自分で自分の心を満たす方法を考えよう。

常に自分のいちばんそばにいるのは、自分なのだから。

その方法をすこし、ご紹介と言うと恐縮だけど…参考までに。



子供の心を満たすと、自分も満たされる


主に乳幼児期の子育てで、私が大切にしてきたことは、「かわいがること」だ。

そんなことかと思われる方もおられると思うが、ちゃんと子供をかわいがっている親は多くない気がする。

赤ちゃんの頃はともかく、1歳過ぎてくると子供はかわいいどころか、自分の邪魔をするうっとおしい存在である場面が増えてくる。

親が子供に無償の愛を注げるというのはこの時代では稀なことだ。

子育てが女性の一番の幸せであった時代にはできたと思うが、女性が社会で自己実現することが可能になった今の時代においては、子供が自己実現を阻む存在であるのは明確で、それゆえ我が子に愛を注ぐのは難しくなっている。


子育てには多くの時間とお金がかかる。

自己実現にとってそれは負担だ。

悩ましいことに、女性が社会で必要とされる年齢と子供を産める年齢は重なっている。


自分の能力を発揮できるこの年代に、社会から距離をおいて家で子育てだけに費やす日々の時間に、母親はかなり孤独を感じる。

取り残されている感じ。何も達成していない感じ。自分が何者でもない感じ。
認められていない感じ。

自分の時間や自分の価値が子供に奪われている感覚になる。


子供がいなければ、という思いにもなる。


世のお母さんは本当によく頑張っている。
その割に理解されず、評価もされない。

現代の母親特有の孤独や焦り、責任の重圧を感じながら、日々の忙しさに自分と向き合う時間もないまま、思い通りにならない我が子にイライラをつのらせていく母親は多い。


私はもちろん、子供を持つことでしか得られないこの上ない喜びも知ってはいる。


そのうえで、子育てによって親が犠牲にするものの大きさも知っている。


子供に対する責任と、自分の能力を発揮する機会を損なう虚しさとの葛藤のなかで苦しむ母親がいることを、社会は理解するべきだと思う。
周りの理解というのは、とても大切だ。



孤独と焦りと責任の重さを感じながら、日々の子育ては慌ただしく進む。

多くの母親は、もやもやした思いを言葉に出すひまもなく、心に留め込んで膨らませ、それをケアする時間もないままストレスフルな毎日を過ごしている。


もちろん子供は、かけがえのない存在でこの上なく大切なものであるには違いないが、日々の生活でどんなときも愛せるわけではない。

子供というのは限りなく自己中なのだ。

一日一緒にいれば、かわいいよりも、腹が立つことのほうが何十倍も多い。

腹が立っても一回や二回なら我慢するが、もう無理ってくらい子供は自己中だ。

それが問題だ。

腹を立てたいわけではない。
親の我慢が足りないのでもない。
子供の母親に対する不機嫌さがあまりにも甚だしいのだ。

腹が立たないようにするには、子供の機嫌がよくニコニコしてくれていればいいのだが。


どうすれば一番ニコニコしてくれるかと言うと、これは私の実感だが、

「母親に愛されている」と心と肌で感じている時だと思う。

子供というのは、親に愛されたくて仕方がないのだ。
親に受け入れられ愛されることが最高の幸せだとインプットされて生まれてくるのだ。

親に愛されなければ、自分に価値はないと感じてしまう。

親に愛されているという実感を持てなければ人は自尊心を保てない。
そうするとニコニコしていられない。


乳幼児期にこの自尊心が育まれないとしたら不安定な土台のもとに自己を確立していくことになる。

もろい土台の上に築かれる知性も性格も心ももろく崩れやすい。
土台を強固にしなければ上に築くすべてのもがもろい。




「自分は愛されている」という確信が、人を形作る土台となっている。
生まれてから数年間のうちに、その確信を、充分にに実感する必要がある。

だから何はなくてもまず「かわいがること」が最重要。

かわいがり方は、自分のやりやすい方法でいいのだが、私はルーティンにして朝起きた時や、夜寝る前に時間を取ってやっている。


具体的には「かわいいね」と言いながら肌を触れ合うこと。なでたり抱きしめたりすりすりしたりする。


一回の触れ合いの時間は1分とか、とても短い。「かわいいね」を10回も20回も言う。

面倒なときもあるし、それどころじゃないときもある、かわいいと思えないときもあるし、全然そんな気分じゃないときもある。

それでもがんばって言う。演技で言う。

すると子供はすごく喜ぶ。すごく安心した様子になる。

最初は無理して言っていた「かわいいね」だけど、うれしそうな子供を見ているとだんだん本当にかわいくなってくる。

この子はこんなにも、私を必要としてくれるのかと、こっちもうれしくなってくる。

与えているときは、与えられている時なのだ。


満たしているときは、満たしてもらっているときなのだ。


子供を満たす言葉をかけ、それによって満たされる子どもを見るとき、同時に自分が必要とされていることで、自分も満たされる気持ちになるのだと思う。


話を戻すと、子育てで大切なのは、親の心が満たされていること。


そのために自分で自分の心を満たすサイクルを習慣として作ってしまうのがよいと思う。
できるなら一日が始まる朝のルーティンとして。 


親の心が満たされると、子供の心を満たすことができる。

満たされた子供は、機嫌よく過ごしてくれる。 

そうすると、親も機嫌よくいられる。

このように良い循環がうまれる。


この良い循環のはじめのスイッチは、親が子供のに「かわいいね」と声をかけながら抱っこしてかわいがることだ。

そうすると、良い方に回りだす。


「かわいいね」でなくても、子供の存在自体を認める言葉ならなんでもいい。「だいすき」とか「〇〇ちゃん」とかいっぱい言って抱っこする。

面倒なときも、ふりでもいいのでとにかく大袈裟にかわいがる。

良い循環を生み出すために、1分、全力でかわいがってみてほしい。

その時間さえないという親の気持ちもよくわかる。
なら、10秒でもいい。


何かを変えようとする時、まず自分が変わらなくては。
自分を動かせるのは、自分だけだ。


愛は無償でなくてもいい。

演技だとしても、愛を示そうとする行為自体が、立派に愛情だと思う。

だから私は、この子が機嫌よくなって自分が楽をしたいという不純な動機で子供に愛を表してきた。


子供たちはその愛をいつもまっすぐに受け取ってくれる。
疑うことなく。

口に出す言葉は、時には偽せもののときもある。
心からのものでなくても「かわいいね」と言えばいい。

だって本当は、本当に愛しているのだから。

普段、怒ったり腹を立てたりするのは、その時の子供の行動を愛せないだけであって、その子の存在自体はいつだって愛しているのだから。


おかあさんだいすきだよ


娘がわたしに言った言葉

無償の愛を表してくれるのはいつだって子供の方なんだ。

この優しさを私も他の人に表せるように心にこの言葉をいつも置いておこうと思う。

子供はやがて親に愛されていた幼い頃の記憶を忘れて生きていく。

痛みや苦しみは心に残りやすいが、幸せだった記憶は案外薄れていくものだ。

だけど心の奥のどこかには、愛された記録として深く刻み込まれるに違いない。

自分がこの世に生まれて、ここに存在していいんだという、幼い頃に刻み込まれた安心感は、一生その心に、揺るがない土台として敷かれることになるだろう。

あなたが大好きだ。
ただいて欲しい。
存在していて欲しい。
その思いをたくさん受け取った子供は、満たされて生きていけるに違いない。

そして誰かを満たせる人になってくれたら。
注がれた愛を、他の誰かにまわしていってくれたら。

今日わたしが表す子供への愛が、巡ってめぐって、いつかどこかの誰かの心を、満たすかもしれないね。
その誰かは戦争で人を殺すことを止めるかもしれない。

子育ては壮大だ。
人を育てるということは、世界を変えられるかもしれないということだ。

世界に愛があふれることを私は願っている。

そのために私ができることは、きっとある。

小さなわたしの、小さな言葉で。

読んで頂きありがとうございます!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?