悪いことの定義

 いつからタバコって悪になったんだっけ。
 確か俺が中学生の頃、カッコイイ先輩がアイデンティティの一つのように愛用してた。
 実際、吸ってる姿も手にしている姿もキマッてたし格好良かった気がする。

「あたし、セルフプレジャーしてんだー」

 幼馴染の絵美里がカクテルを半分飲み干して、突然そんな言葉を俺に発した。

「セルフ、なんだって?」

 耳馴染みのない言葉に怪訝な顔をすると、彼女は急に自信なさげに俯いた。

「ヒロも、やっぱりこういうの軽蔑する?」
「は? いや……その単語の意味がわからんから、なんとも」

 困惑してそう答えると、絵美里はへへっと笑ってスマホの画面を見せてきた。
 そこには女性が自分の胸に手を当てて目を閉じているイラストが描かれている。

「これ何?」
「自分で自分の性欲を満たしてあげるの。それがセルフプレジャー」
「へえ」

 俺の気の抜けた返事に、絵美里は照れていた顔を一変させた。

「もうっ、男がそうだから! 女は自分で自分を愛するしかないんじゃん!」
「ちょっと待てよ。俺はお前の恋人でもなんでもないだろ。それに男を一括りにしてしゃべるのはやめろって前から言ってるじゃん」
「それはそうだけど。もうちょっとさぁ、なんか……恥ずかしそうな顔とか、困った顔とか……気まずそうにしてくれてもいいんじゃないの」

(なんだそりゃ)

 要は俺が絵美里をもう少し女扱いしたような態度をとらんかいというということのようだ。
 悪いけど、俺は絵美里に限らず女性のことは普通に友達以上に見れないし、恋愛とか面倒くさくてとてもやってられないって思うタイプの男だ。
 それが「悪」とされても、こちらとしても困ってしまう。だって欲するものがないのに求めろと言われても困るに決まってる。

 でも、絵美里の側にしてみたら、自分は性欲があって自分で慰めないといけないくらい欲している。なのに恋人がいてもそれを埋めてもらえないっていうのは確かに苦しいだろうと思う。
 食欲は満たされなきゃ死ぬけど、性欲は満たされなくても死なないだろうってみんな思ってるんだろう。

「ヒロはそれを理解してくれてるから、話しやすいよ」

 そう言って絵美里は、相変わらずセックスレスの恋人と別れる気はないという。居心地が良くて優しくて、夜の営み以外には問題がないらしい。
 そこで、どうにも埋まらない欲求をセルフプレジャーで埋めているということみたいだ。

「別にそれでいいんじゃないかな?」
「他人事だと思って、適当に言うな!」
「いや、本気でいいと思う。ていうか、恋人は1人じゃなきゃいけないってルールはないだろ。性的に満たしてくれる相手とも付き合えば?」
「でたーヒロヨンの倫理観ゼロ発言」
「相談しといてそれはないだろ」
「あーごめん」

 俺は性的欲求はないものの、セクシャルなことについては割とオープンに語るし、基本ダメなことなんてないと思うスタンスだ。だから友人からは「懺悔室」というあだ名がつくほどにタブーな話題を告白されることが多い。
 
 そこでまた俺は頭の中で「悪」について考えるのだ。
 酒もタバコも、時代によっちゃあカッコイイ、嗜み、なんて言われた時もあったわけだ。なのに、大衆が「悪」と言ったら「悪」になってしまうわけで。
 税金を好き放題にあげられて、理不尽だなと思う。

 で、同じ「悪」でも性的な部分はもう少し複雑だ。
 やっぱり昔からタブーではあったんだろうけど、今の情報化社会、自由社会、なんでも個人で動きが取れる時代になって均衡が崩れてきてるんだろうなと思う。
 恋人でも結婚相手でも、一人と決められているからには、複数の関係性は常に「悪」とされてしまう。満たされない側が耐えるか、秘密を持つか、別れるか。そんな極端な決断しか許されていないのが現状だ。
 まあ、倫理感の違う国に行けばまた違うルールがあるんだろうけど。

「そのセルフ何ちゃらでで絵美里が満足できてるなら、問題ないと思うけど。
そうじゃないから俺に相談したんだろ」
「……まあね。でも正解もないから、ただ言いたいだけなのかも」

 絵美里は諦めきった顔でそう言い、氷の溶けたカクテルをグビグビと飲んだ。

 幸せじゃないわけじゃない。
 だから多少の不満は我慢しなくちゃいけない。
 自分以外の不幸な人とちょっとだけ比べて、ちょっとだけホッとして、今の自分に満足しようってまた明日を見る。
 それは間違ってないし、現状に満足しながら生きることは幸せになれる一番の近道だとも思う。ただ、感情とも理性とも違う、本能的な場所での不満って、蓄積されると結構な重さになるんじゃないかと想像する。

(だからってこれ以上倫理から外れたアドバイスもできないし)
「まあ、また吐き出したくなったら俺に愚痴ればいいよ。セックス以外なら何かしら答えてやれると思うし」
「あんがと……でもそれ、一番応えて欲しいところなんだけどなあ」

 冗談めかして笑いながら、絵美里はそう呟いた。
 あまり物事に動じないタイプの俺だけれど、絵美里のなんとも言えない切ない表情に少しだけ胸が痛んだ。

END


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