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「運命の人」というマインドコントロール

自分にも原因があるから、こういう態度なんだ。
自分が根気強く歩み寄れば、きっと相手は心を開いてくれて仲良くなれる。

そう信じて、ある人間関係に執着して2年。
結局相手は変わらず、私自身も命を失いそうな危機を感じたので離れることを決意した。

その人には恩があり、それが信頼の根源だった。
でも必要以上の好意を向けてしまったが故に、相手にコントロール欲のスイッチを押させてしまった。
考えてみれば、知り合った頃から言葉が通じなくて会話にならない人だなという印象はあった。それでも態度や行動に優しさがあったから、信頼し、交流することは続けていたのだけれど。

この記事で何が言いたいのかというと。
巷で言われている「運命の人」という概念。
それはロマンチックで情熱的で甘美である。
実際に妄想の中での「その人」は、愛に溢れていて、自分のことを心から大切にしてくれているように思えた。
だが、実際に行われていたのは「モラハラ」であった。

私がその人に受けたものは「嘘」「欺瞞」「あざけり」「はぐらかし」だった。
とても巧妙なので、私が頭がおかしいと言われてもおかしくないレベルのことばかりで、誰に説明もできない曖昧な世界のことだ。

調べてみると、それは愛着障害から起きる性格的な偏りによる行動であったが、私にも愛着障害の傾向があるので、悪い意味で相性が噛み合った。ちょうど「加害者意識」「被害者意識」の凸凹がはまった関係だったのだと思う。

これは言い訳だが、私の身の上にも人生最悪と言えるような落ち目が訪れていたタイミングだった。
思考が働かず、仕事がほぼできなくなった。
健康面も金銭面も余裕がなくなっていた。
こんなだから、いつもに増して自信が失われていた。
相手の少しの優しさがオアシスの水のように嬉しかった。

「運命の人」なのだから、その人とうまくいけば人生も上向くかもしれない。
そんな期待があったのが私の甘えと弱さだったと思う。

途中、苦しさのあまり、関係を切ることをなん度も試みた。
それでも相手からのコントロールから抜けるのは難しかった。考えたくないと思ってもほぼ1日中思考を占領され、どうして嘘をつくのか、どうしてはぐらかすのか、次こそは友好的になってくれるのかなと……不毛な日々を過ごした。
こういうのを「マインドコントロール」と呼ぶのかもしれない。
相手を悪く思うことができない。
なぜかそれは「裏切り」のようであり「見えない支配」にがんじがらめになっていた。
結局私は「現実に生きる自分の心」を選択した。
それをスピリチュアル界では「試練を放棄した」というのだけれど、私はそれでいいし、脱落者として今の命を大切にしたいと思っている。

悲しいのは、こういう「運命の人概念」を信じた人間の方が馬鹿だと言われてしまう現実だ。
だから精神が孤立し、一人でなんとかしようとしてドツボにハマる。
さらに、相談できる人がいないという現実。
お金を払ってヒーリングを受ける。占いをする。
「どうやり過ごせばいいのか」と四六時中誰かの指示を得なくては生きられないような現実が繰り返されるようになる。
この「運命の人概念」は、人間の心を破壊するのに十分な「脅し」であると感じる。

誰だって幸せになりたい。
苦しみから救われたい。
そう心から願うが故に、最も大切な自分の時間、お金、心、生きるエネルギーをどんどん失っていく。
逃れようとしても頭が割れるように痛くなり、エネルギーがすぐに枯渇する。
この繰り返しをしているうちに、とうとう精神がギリギリの状態に追い詰められた。生きていることの意味を失いかけるところまできた。

あり得ないほどに泣き、騒ぎ、逃げ場のない「生きなくちゃいけない」という現実に「絶望」した時、一つ疑問が湧いた。

こうまでしないと私は愛されないのか?と。

誰がなんと言おうと、私が「大切にされている」と感じるのは「私」しかいない。

だから、なん度も、なん度も、私を泣かせて苦しませて、まるっきり改善する気配のない人が愛すべき人なはずもないし「運命の人」なわけがない。
そもそも、私も結局その人を愛せていない。
なのに、相手から真の愛など得られるわけもない。

愛というのは努力して育てるものだ。
「愛は技術である」と表現したエリッヒ・フロムの言葉通りなのだ。
お互い歩み寄る努力がなかった場合、「信頼」も「愛」も得られることはないし、育つこともない。
一方的な支配の中に「愛」などあるはずもないのだ。
知っていたのに、私は今回、より甘美な「あり得ない夢物語」を選んでしまった。

愛着障害、アダルトチルドレン、発達トラウマなどの影響によってすっかり弱っていた。
アラフィフという年齢で、自分がもう女性として終わってしまうのではないかという恐怖もあった。(これは正直かなり大きい)

愛されていないと感じるのが、死ぬほど辛くて寂しかった。

「愛されたい」

「愛されていると感じたい」

そのために、自分を絶対に愛さない人に執着してしまった。
自分の弱さが支配したい人を呼んだ。それは事実だから、責めるような気持ちはないけれど、これ以上傷つけられる関係はこりごりである。

私には理解できないけれど、相手には相手の世界があり、正義があるのだろう。相手から見える認知の世界では、私は自分の嫌な気持ちを刺激してくる憎い敵だったのかもしれない。
そう思うと、理解し合うなんて不可能で、離れるしか方法はないと思う。

ここまで自分を取り戻せて、正直ホッとしている。

自分が信じられる人が判別できなくなる。これはとても恐ろしいことだった。
自分を信用できないというのは、こういう怖さを呼ぶということだと知った。
今回のことで、「理屈なくこの人のことは信じられる」という絶対的に信頼できる人を得ておくのはとても大切だと痛感した。

自分が曖昧になった時の「灯台」のような人だ。

それは親でもパートナーでも友人でもないかもしれない。
普段はそんなに交流はないけれど、印象的な言葉を残した遠くの知り合いかもしれない。
それくらい離れているのに絶対的に信頼できる人、というのはなかなかに貴重だ。

私の場合、今回、その人の存在が救いになった。

今後も心が乱されることはあるかもしれない。けれど、同じことを繰り返さないよう、ここに文章で記しておく。

END






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