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アウグスティヌスの『告白録』からマニ教を読み取る

先日、学生時代に使用していたPCから大学の卒業論文が発掘された。

宗教的な文化や歴史に興味があったこともあり、選定したテーマは「マニ教」。現在では消えてしまった宗教であるため、日本での認知度はあまり高くない。加えて、文献もほとんど残っていないことからその詳細もいまいちわからないという、なんともミステリアスな宗教なのだ。

そんなマニ教を知る手段として、現在キリスト教において聖人と崇められるアウグスティヌスが書いた書籍がある。なんと彼は若い頃マニ教を信仰していたのだ。当時の反省などの記述が『告白録』において記述されている。そこからマニ教を考察しながら、ついでに改宗したアウグスティヌスの思惑も暴こうという気持ちで書いた、ような気がする。

英語すらまともに読解できない学生が書いた論文ということで、その内容は基本的に他者が翻訳した文献をベースにしながら、少しの私見を記述するというレベル。あまり良いものとは言えないかもしれないが、一応複数人の教授がチェックしているのでとんでもない間違いは含まれていないはず。

マニ教に関する書籍はあっても、ネット上の記事はあまり見かけないということで、もしかしたら誰かの役に立つかもしれないと思い投稿してみる。

興味を持っていただけたら、参考書籍などへ深掘りしていただければ幸いです。


はじめに

 アウレリウス・アウグスティヌス(ラテン語:Aurelius Augustinus 354年~430年)は北アフリカ、ヌミディアの小都市タガステの地に、中産地主の長男として生まれた、キリスト教神学の基礎を築いた古代ローマ時代の大神学者であり、哲学者、説教者ともいわれる人物である。彼は生涯でキリスト教神学に関する膨大な数の著作を残しており、その内容は現代にも影響を及ぼしている。そしてそれはキリスト教圏への影響を超え、(カール大帝、ジャン・カルヴァン、コルネリウス・ヤンセン、近代ではアルトゥル・ショーペンハウアーやフリードリヒ・ニーチェなど)現代の西洋思想全体にまで及んでいるといってもいいだろう。

 アウグスティヌスはカトリック教会において「最大の教師」と呼ばれ重要視されている。西洋においては醸造業者、印刷業者、神学者の守護聖人であり、多くの地域、都市の守護聖人となっていることからも分かるだろう。

 このように、現在の西洋キリスト社会に多大な影響を与えているこ彼が、キリスト教徒である以前マニ教徒であったということは忘れてはならない。

マニ教は、西暦三世紀末西アジアに生きたパルティア貴族の末裔、マニ・ハイイェー(216~277)により説かれた教えに端を発する宗教である。現代においては消滅してしまっているマニ教であるが、アウグスティヌスが生まれる以前、3世紀末には地中海世界において大々的な成功を博していた。そしてマニ教の勢力はさらに拡大し310年代には伝道団をローマに派遣、この世界帝国の都で布教活動に入った。

 このマニ教の拡大に対し、ディオクレティアヌス帝(在位248~305)はマニ教勅令を発布するなどの迫害を行った。この皇帝はキリスト教徒に対しても303年にローマ全土において、強制的な改宗、聖職者全員の逮捕、投獄などの勅令も発布している。このことはキリスト教史において、「最後の大迫害」と呼ばれている。

 ローマ帝国における宗教迫害は、313年コンスタンティヌス大帝(在位306~337)によるミラノ勅令で解消された。これによりローマ国内において諸宗教の自由な布教が認められ、キリスト教もマニ教も信仰の自由を得た。

 このミラノ勅令後から、テオドシウス一世(在位379~395)がキリスト教をローマの国教に指定する392年までの約80年間が、キリスト教とマニ教が一対一で鎬を削った時期である。マニ教はエジプト、ローマ、アウグスティヌス生誕の地である北アフリカ、スペインに至るまで、しっかりと組織された教会制度を整え、各地に伝道師を派遣していた。このような活動の結果、キリスト教ではなくマニ教を選び取る人々もかなりの数に上った。当時のマニ教は草創期のキリスト教を苦しめ、ヨーロッパにおいて唯一キリスト教の代替物になる可能性を秘めるほどの力を持っていたのである。

 結果としては、マニ教はこの宗教的対立に敗れ西洋世界はキリスト教一辺倒になるのだが、現在キリスト教世界において「最大の教師」と言われるほどの影響力を持つアウグスティヌスが元マニ教徒であったという事実は非常に興味深い。

 そして、マニ教は各地に広がった際にも、翻訳の際に起きるわずかな言葉のニュアンスのずれが起きたため重大な混乱が引き起こされたといえる。例えば中国でのマニ教はその聖典を仏典のように作り仏教の体制を取ってみたり、道教の経典に化けてその一派であるかのようにした。その結果それぞれの宗教からは異端とみなされ弾圧、排斥されていった。それはキリスト教やゾロアスター教の中でも同様である。

 そのために数多く書き記したであろうマニ自身の言葉は失われてしまい、マニ教に反対する立場の著作だけが残った。これらの著作から近代までのマニ教観は形成されていった。

 しかし20世紀に入り、ユーラシア大陸全域からマニ教に関する文書、聖典の翻訳や信徒たちによる文献が次々と発見された。それらの言語はギリシア語、ラテン語、コプト語からウイグル語、中国語などの訳でありそれらが各地域で発見された。そして現在でもその文書は発見され続けており、2010年には江南のマニ教徒の宇宙観を描いたと言われる絵画が日本国内で確認されている。

 これだけの地域で発見され、文書も様々な言語で書かれている文献に対し1987年にヨーロッパで国際マニ教研究学会(International Association of Manichaean Studies)が、1988年にはアメリカの聖書学会の中にマニ教研究部門(The Consultation on Manichaeism within the Society of Biblical Literature)が設立され研究されている。

 また、中国人民大学が2005年に国学院西域歴史語言研究所を設立し、中国における摩尼教を研究している。

 本論ではそのような新しく発見された文書ではなく、アウグスティヌスが書き残した代表的な著作の内の一つである『告白録』をもとに、当時の地中海世界におけるマニ教の活動などを明らかにすること、また、アウグスティヌスの信仰心の変化などをみていきたい。
 また、『告白録』は山田晶氏のものを使用する。

第一章 アウレリウス・アウグスティヌス

第一節 『告白録』について


 アウグスティヌスが『告白録』に着手したのは397年、43歳の時である。この時彼はキリスト教徒であり、ヒッポ・レギウスの司教を務めていた。
この告白という言葉は神に向かっての告白である。そのため、神に向かっての「呼びかけ」という形式で書かれている。

 この書は主に三つの部分から成り立っている。
 
 第一の部分は、第一巻から第九巻までである。その中では、アウグスティヌス自身が過去においていかに愚かな者であったか、何という罪人であったか、しかもその罪人である自分を神は見捨てることなく、大きな憐れみを持って回心に導いていただけたか、という内容が語られている。これは彼が過去に犯した過ちの告白であるとともに、その告白をとおして、神の憐れみに対する感謝、賛美である。そして、神はアウグスティヌスを回心させるために、直接働きかけることは無かったため、多くの人々、事件を通じて間接的に働きかけた。その為、この告白にはこれら多くの人々に対する感謝の告白も含んでいる。

 第二の部分は、第十巻である。ここでアウグスティヌスは、ヒッポの司教としての現在の自分についての告白をする。ここでも、「自分の愚かさについて、神を讃える」という部分は引き続き色濃く出ている。ここで彼は、自己がもはや過去の自分ではなく、もっと高い所にいると語っている。これは自信を誇るためではなく、この高みまで引き上げてくださった神へ感謝するためである。

 しかしその中で、「私はもはやいかなるものではない」という告白も含んでいる。自分はもはやかつてのように肉体の誘惑に苦しむことはないが、現在の自分は本当にその誘惑を捨て切れているのかというと、必ずしもそうではないという。自分は未だに不完全であり、過去のような過ちを決して犯さないにしても、罪への傾きは免れていない。自分は一面において「もはやかつての私ではない」が、他面において「いまだかつての私である」という点についても告白し、このような状態から救い出してくださるように、神の憐れみを求めているのである。
 
 第三の部分は、第十一巻から第十三巻までである。ここでは旧約聖書の『創世記』の注解が行われている。しかしその注解をとおしてアウグスティヌス自身の告白がなされている。彼はここで、現在の自分が、神の言葉について、どれだけのことを理解できているかを告白するとともに、まだ自分に理解できていない点についても告白している。つまり、神についての「知」と「無知」とを告白するのである。

 この第三の部分はアウグスティヌスにおける「神学」を理解する上で非常に重要な部分である。しかし本論ではアウグスティヌス神学を考察するものでは無いため、この第三の部分を省き、『告白録』の第一巻から第十巻を基本的に参照する。

第二節 マニ教入信まで


 アウグスティヌスは16歳の頃、370年に生まれの地であるタガステから、カルタゴへと居住地を移しマニ教と出会いその教えにのめり込んでいく。このタガステという町は地理上では、アフリカのローマ帝国総督府所在地であった大都市カルタゴの西方約240キロ、地中海に面した港町ヒッポ・レギウスから約95キロ南方の内陸に位置している。現在ではアルジェリアの領土内にあり、スーク・アハラスと呼ばれている。現在の私たちがイメージするアフリカとは違い、当時のアフリカ(北アフリカ)ローマ化された地中海世界の一部であった。そしてイタリアの穀倉といわれるほど農産物が豊かであり、本土との人間の交通も激しく、繁栄を極めていた。テレンティウスやアプレイウスのような文人、さらにはアフリカ人からローマ皇帝にまでものし上がったセプティムス・セウェルスのような人物も輩出していた。

 宗教の面でみると、キリスト教が盛んであり、キプリアヌス、テルトゥリアヌスのような偉大な教父も出ていた。特に、カルタゴはローマ化されると同時にキリスト教の影響を受けていたのだが、アウグスティヌスが生まれたこのタガステでは、隣にあった文化都市マダウラ(今日のマダルーシュ)とともに、原住民(ベルベル人)の伝統を重んじる傾向にあった。そして、アウグスティヌスの母モニカはベルベル系であった。

 アウグスティヌスの両親はローマの市民権を持ち、ラテン語を話していた。父のパトリキウスは異教徒であり、母のモニカはキリスト教徒であり、アウグスティヌスはその出生からして、キリスト教と異教という闘争に引き入れられていた。しかし父パトリキウスは信仰の邪魔をすることはなかったようである。そして、アウグスティヌスには兄弟姉妹がいたとされるが正確なことは分らない。少なくとも二人おり、一人は男でナヴィギウス、もう一人は女でペルペトゥアと呼ばれている。しかしながらこの二人に関しては資料が少ないために詳しいことは不明である。

 アウグスティヌスは幼少の頃から、母モニカの影響によりキリスト教の教えの下にいたが洗礼を受けることはなかった。

アウグスティヌスはタガステで、7歳の頃から初級学校に通いはじめていた。現在と同じように、読み、書き、計算を習うためであったが、幼い彼にとって学校は面白くなく、勉強が何の役に立つのか分らなかったと『告白録』で述べている。

学問を学ぶために学校へ送られましたが、それが何の役に立つものなのか、あわれにもしりませんでした。それなのに、勉強をなまけると、打たれたのです。大人たちは、こういう教育法をほめていました。

(『告白録』:72~73)

 このような強制的に学問に向かわせるという大人の態度に、アウグスティヌスは不満をもっていた。

 当時のローマの学校制度は大体次のようになっていたと思われる。第一段階では読み、書き、計算である。第二段階は文法であり、これは今日の言葉の意味とは少し違い当時は詩作法等も含んでいた。そして、第三段階は修辞学であり、古典教養を得るためのものであった。

 アウグスティヌスはこの第一段階をタガステで受け、第二段階をマダウラ、第三段階をカルタゴでの遊学で受けた。

 この第一段階における、読み、書き、計算をアウグスティヌスは好まず、ヴェルギウス等の文学作品を好んだのは宜しくなかったと述べている。つまり彼は、少年教育における文学作品の役割を低く考えていたのである。その理由は主に二つある。

 一つは、文学作品は少年を卑俗にするということと、二つは空想的にすることである。一つ目の点についてはアウグスティヌス自身の体験からあり、彼は少年時代に教えられた文学作品により、卑猥な言葉や事柄を知ったと言っている。

 二つ目の点については、プラトンのイデア論に影響を受けているようである。そのため、幼少期のアウグスティヌスは勉学よりも遊びと見世物を好んだ。

 じっさい、私が不従順だったのは、学問にまさるものをえらんでいたからではなく、ただ遊びたい一念からでした。競技では傲慢な勝利を好み、虚偽の物語で耳をくすぐられるのを愛し、くすぐられる度の強いほど、熱愛しました。さらに好奇心はますますはげしく目からふきだし、おとなの遊楽である見世物にむかいました。

(『告白録』:75)

 そしてタガステでの第一段階を終えて、彼は隣町のマダウラにある文法学校に進み第二段階の教育を受けることになる。このための教育費用は父パトリキウスが出していた。一般の子供よりもアウグスティヌスは多くの教育を受け、その才能を伸ばす環境に恵まれていたのである。そして、このマダウラにおいては、ある教師の家に寄宿し、文法学と修辞学を学びはじめた。

 アウグスティヌスは古典に興味があったのだが、ギリシア語が苦手であったためラテン作家を好んだ。ギリシア語に関して彼がどの程度の知識を持っていたのかについては、議論が定まっていない。しかし、少なくとも読解するには十分な知識は持っていたとは思われている。

 このマダウラでの生活により、文学作品にのめり込んでいくことになる。そしてその読書を通じて、言葉の素晴らしさ、観念と想像力のもつ魅力、人間の現実の複雑さ、愛の多様さと奥深さ、宗教の持つ神秘性などを少しずつ理解していき、それらに対する感覚も育ち、関心も増していった。こうしてラテン的教養を身に着けていったアウグスティヌスであるが、それと同時に、快楽を謳歌する文学にも多分に影響され、愛そのものを愛し求め享楽に身をゆだねて生きる人間の姿に惹きつけられていくのである。それは彼の内にひそむ情欲を目覚めさせ、この後のアウグスティヌスの行動に影響を与えていると言ってもいいだろう。

 このマダウラでの勉学を終えてから、故郷タガステにアウグスティヌスは戻ってくる。その時にはすでに、長期にわたるカルタゴへの遊学資金が父パトリキウスのより準備されていた。そのことについて彼はこう語っている。

当時、資力の限度をこえて息子のために、それも勉学のための長期にわたる外地滞在費を調達した人間、私の父を、激賞しないものはありませんでした。父よりはるかに裕福な多くの市民のうちだれ一人として、その子のためにこんな苦労をするものはなかったのですから。

[『告白録』:94]

アウグスティヌスは父パトリキヌスにより高度な教育を受けることができたのだが、本人はそれを喜んではいなかったようである。

しかしその同じ父が、御前において私がどのように成長しているか、貞潔はどんな状態か、などということにはさっぱり無頓着で、ただもう雄弁でありさえすればよろこんでいましたが、その私は雄弁というよりはむしろ、神よ、あなたの耕作から見はなされた荒地になっていたのです。

[『告白録』:94]

 このように喜んでいるどころか、学問を学んだことによる複雑な心境を語っているのである。しかしながら、この父の支援によりアウグスティヌスは後にマニ教と出会うことになる地、カルタゴへと遊学することになる。
このカルタゴに来た時の心境をアウグスティヌスはこう語っている。

私はカルタゴにきた。するとまわりのいたるところに、醜い情事のサルタゴ(大鍋)がぶつぶつと音をたててにえていました。私はまだ恋をしていませんでしたが、恋にこいしていました。そして欠乏をそれほど感じない自分をにくんでいましたが、それは内奥に欠乏がひそんでいたからなのです。私は恋を恋しながら、何を恋したらよいかをさがしまわり、安穏で罠のない道を嫌っていました。(中略)「恋に恋される」ということは、恋する者のからだをも享楽しえた場合、いっそう甘美でした。それゆえ私は友情の泉を汚れた肉欲で汚し、その輝きを情欲の地獄の闇でくもらせてしまいました。しかも、汚れて下劣な者のくせに、虚栄にあふれ、優雅で洗練された人間であるようなふりをしていました。ついに私は、自分からひっかかりたいと熱望していた情事におちいりました。

[『告白録』:105]

 このようにして始まったカルタゴ遊学であるが、アウグスティヌスは勉学に勤しみ雄弁で人に抜きんでようと熱望していた。しかし、その理由は人間の虚栄をよろこぶ、非難すべき軽佻な目的のためであったと述べている。そして、彼はその勉学の過程において、キケロの『ホルテンシウス』に出会うことになる。この書物に彼は感激し、こう書き記している。

この書物は、私の気持ちを変えてしまいました。それは、主よ、私の祈りをあなたご自身のほうにむけかえ、願いとのぞみとをこれまでとは別のものにしてしまった。突然、すべてのむなしい希望がばかげたものになり、信じられないほど熱烈な心で不死の知恵をもとめ、立ちあがって、あなたのほうにもどりはじめました。

[『告白録』:112]

 この『ホルテンシウス』の次にアウグスティヌスが手にしたものは聖書であった。しかし、当時の彼には聖書の内容は取るに足らないものだと思われたようである。

そこで私は聖書に心をむけ、どのようなものであるかを見ようと決心しました。(中略)聖書はキケロの壮重さには、くらべものにならないと思われました。傲慢にふくれあがっていた私は、聖書のつつましい体制をいとい、内奥を見通すだけの視力をもたなかった。

[『告白録』:113]

 ここで、聖書に感激しなかったということが、アウグスティヌスにとっての大きな転換点となったであろう。彼はこの後すぐにカルタゴのマニ教徒と出会い、その中に落ち込んでいくことになる。

第三節 マニ教徒アウグスティヌス


 カルタゴにアウグスティヌスが遊学に訪れたのは370年であり、その2年後に、アウグスティヌスはマニ教に入信した。そして、そのちょうど同じ年、372年に当時のローマ皇帝ヴァレンティアヌス1世によりマニ教禁止令が出されている。しかしその禁止令は厳格に守られていなかったことがこの『告白録』によって分かるだろう。そして、カルタゴには数多くのマニ教会が存在しており、その数はカトリック教会の数を凌駕していた可能性がある、と高橋亘氏は述べている。

 このカルタゴにおいて、恋に恋するアウグスティヌスは16歳の時一人の女性と出会い、その女性と同棲することになる。そして、彼が18歳の時、息子のアデオダートゥスが生まれている。この女性については名前も知られていなく、おそらくは身分の低い者であったと考えられている。アウグスティヌスは16歳から31歳までの16年間この女性と暮らすわけである。そして、彼女との出会いがアウグスティヌスの生涯に2つの大きな影響を及ぼしていると青木晶氏は述べている。

 1つはアウグスティヌスの母親は、彼が素姓のわからない女性と一緒になってしまった事実に嫌悪感を抱き、これ以降不和になってしまったことであり、2つめはこの女性と同棲する頃からマニ教に熱中するようになるということである。

 2つめに関しては、母モニカは敬虔なカトリック教徒であったため、アウグスティヌスが異端者になったことは、母親との仲を裂く原因としては十分にあったであろう。

 ここで問題となることは、何故アウグスティヌスはマニ教に入信したのだろうかということであり、これについては様々な説が出されている。
母モニカが信仰していたアフリカのカトリックは、地方の習俗と混合した泥臭いものであった。そのため、マニ教の教えはアウグスティヌスにとって新鮮なものに感じられ、心が惹かれていったというものである。

 しかし、この説については疑問な点も残るだろう。当時マニ教がカルタゴ以外の北アフリカにも伝わっていたということが、1918年テベッサにおいてマニ教ラテン語写本、1930年マディーナト・マーディーにおいてコプト語写本、ケルスにおいて1991年コプト語写本が発見されていることから考察できる。そのため、カルタゴで初めての教えに新鮮さを感じたという説は信憑性に欠けるだろう。

 また、マニ教は教祖マニが絵の才能も豊かであったため非常に美的であり、その儀式は荘厳で美しかったことが、最近の発掘で明らかになっている。この部分に、美に対する感覚が敏感であったアウグスティヌスは惹かれたという説もある。しかしながら、アウグスティヌスが美に対してマニ教入信以前から感覚が敏感であったという根拠はどこにもない。彼が初めて書いた論文『美と適合について』は380年に書かれており、ちょうどマニ教に熱中している時期である。そのため、アウグスティヌスの美に対する感覚はマニ教の影響であったのではないだろうか。

 青木晶氏は、マニ教の肉欲についての部分からこの答えを見出そうとしている。マニ教は教義では肉欲を否定し、結婚も悪とみなしている。しかし、これが適応される者は聖職者だけであった。マニ教は信者をこの聖職者と、聖職者のようには生活できない聴聞者という2つにはっきりと分けていた。アウグスティヌスはこの聴聞者の身分であり、この身分の者は、聖職者に供物を捧げ、自分の代わりに罪を償ってもらうという関係が成り立っていた。

 一方、キリスト教のほうはそうではなく全ての信者に対して、厳しい道徳が適応される。そして、キリスト教的道徳から疎外されているアウグスティヌスは、自らの罪を聖なる人々が償ってくれるマニ教に惹かれていったのではと述べている。

 このようにアウグスティヌスがマニ教に入信した原因については諸説あり明らかにされておらず、この問題については第三章においても考察していきたい。

 また、このマニ教を信仰していた時期、ローマは宗教政策が移り変わる激動の時代であった。アウグスティヌスが処女作『美と適合について』を書き上げた380年、テオドシウス帝は正統派キリスト教の信仰を命じ、他の信仰を禁止するという勅令を出す。その1年後にはコンスタンティヌポリスの公会議でキリストの神性という教理が確立する。そして383年、アウグスティヌスは長年信仰していたマニ教を疑いはじめているのである。キリスト教改宗後は数々の論文、著作を発表していき現在では聖人という立場になっている。

 このようなことから、アウグスティヌスは時代の流れに柔軟に対応し、非常に世俗的な部分が強かったようにもみえる。

第二章 マニ教 

 マニ教は、教祖マニが一から作り上げた「人口の宗教」であると呼ばれている。一般的な宗教の場合では、初めにカリスマ性のある宗教的求心力を持った教祖が現れ、その教祖の死後から何世代にもかけて才能ある弟子、信徒達によって少しずつ教義の整備や教団組織が作り上げられていくものが常である。

 これに対しマニ教では、教祖が生涯のうちに教義、教団を完璧に整備してしまい、さらにその教義内容を逐一文字に書き記し、自ら絵画表現も加えることも行った。その上、各地に使徒を送る際も、自ら任命し地中海から中央アジアまでどのように布教するかを事細かに書簡で命じていた。

 この「人口の宗教」というマニ教の性格は、正確に言いかえるとすると「マニという教祖が著した書物中心の宗教」となるだろう。この書物中心という点はマニ教研究史において重要な要素を占めている。

 教祖マニは、現在知られているところでは、合計9刷の書物を著している。ササン朝第二皇帝シャーブフル一世(在位240~272)に献上するために、皇帝の母語である中世ペルシア語で書き記したのが
『シャーブフラガーン』:預言者論と終末論が主題
である。

マニは、この『シャーブフラガーン』以外の書物は全て、セム系の東方アラム語で執筆した。そして、マニは『シャーブフラガーン』を重要視していなかったためか、後のアラム語で書き記した書物だけを正規の教義が記載された「七聖典」に指定している。それが以下の七冊である。

①『大いなる福音』:マニを最後の預言者とする予言者論
②『生命の宝庫』:マニ教の教義体系
③『伝説の書』:神々や人間の創造を神話的に表現
④『奥義の書』:バル・ダイサーン派やユダヤ教の神話への反駁
⑤『巨人の書』:『伝説の書』と並んで、マニ教の教義を神話的に表現
⑥『書簡集』:マニが各地へ派遣した使徒たちに与えた書簡集
⑦『讃歌と祈祷文』:アラム語の韻律による詩編と祈祷

一般的な諸宗教では、聖典を後世の信徒達が個別に編集してしまうということが多く、どこからどこまでを聖典にするかという論争が起きてしまうものである。しかしマニ教の場合ではこのように教祖自身が聖典をしっかりと指定しているというところが特徴である。しかしながらこの大きな特徴は、後にキリスト教やその他宗教との信仰争いの際に弱点となって現れてしまう。

 さらに、教祖マニは絵画の才能にも恵まれており、
『アルダハング』:マニの福音を理解するための絵画集という芸術作品までも仕上げている。このマニ教における絵画というものの位置づけはそれだけで独立する。中世のイスラーム教徒は「キリスト教とは教会建築を建てまくり、マニ教徒は写本と絵画を作成しまくる」と述べているように、独特のマニ教芸術を生み出した。

 このように、「書物中心の宗教」という特徴はその後、完璧すぎる教祖を抱えた結果、教義が発展しないという欠点を露呈することになると青木健氏は述べている。しかし、天分豊かな教祖マニがきちんと聖典を確定し、教義も明確かつ芸術を理解する知的宗教としての風貌を、マニ教に与えた。この知的という部分は後に、アウグスティヌスがこの宗教に惹かれる原因の一つとなったのかもしれない。

 マニ教は第四の世界宗教といわれることもあるほどに各地へ広がっていた。ローマ帝国領内では三世紀半ばにエジプトでの布教に成功し、四世紀には北アフリカからスペイン、南フランス、イタリアというように地中海沿岸全域にその教えを拡大した。さらに、ソグド商人たちとともにタリム盆地や華北に至り、14世紀には忽然と中国南部にまで出現している。

 このようにマニ教は、布教の範囲を西はヨーロッパ地中海世界から東は中国までという広範囲に渡って広げた。この点でマニ教は今日の世界宗教と言われる、キリスト教、イスラーム教、仏教に並ぶ、「第四の世界宗教」と呼んでも差し支えないだろう。

 しかし、この広範囲に渡ったという事実はともかくとして、マニ教の教えが正確に伝わっていたかという点についてはきわめて怪しい。なぜならば、教祖マニの教えとして、聖典の翻訳を可能にしているからだ。このマニ教の大きな特徴である教えは、教祖マニが記したとさされる、新疆ウイグル自治区から出土した、中期ペルシア語文献により確認できる。

 私が選んだ宗教は、他の先人の諸宗教より、10の点で、進んでおりすぐれている。
 第一に、古人たちの宗教は、1つのくににおいて、1つの言葉でなされたものであった。私の宗教は、すべてのくにぐにに、すべての言葉で啓示され、遠くのくにぐにで教えられる、そのようなものである。
 第二に、先人たちの宗教は、指導者が清く限りあるものであって、指導者が点に召し上げられると彼らの宗教は混乱し、規律や勤行が緩んでしまった。[そして・・・。私の宗教は、][行ける書]のよって、教師、助祭、選民、聴衆によって、知恵と勤行のよって、最後まで続くだろう。
 第三に、自身の宗教では勤行を成就できなかった先人たちの魂は、私の宗教のもとにやってくる。そして、それは、確かに彼らにとっての救済の門となるだろう。
 第四に、この二原理の啓示、[生ける書]、私の知恵と知識は、先人たちの宗教より遥かに進み、良い。
 第五に、先人たちの宗教の、すべての書、知恵、たとえ話は、私の宗教[以下、欠損]

(春田晴郎 訳)

 この文書の中の第一の部分が、現在マニ教文書が数多くの言語で発見されていることの根拠になるだろう。そして、ユダヤ教やキリスト教とマニ教の教えを比較しており、このことからマニは他の宗教の存在を強く意識していたともいえるであろう。

 マニ教の広がりは一見キリスト教やゾロアスター教、仏教と競いながらも各地で信徒を獲得しているようにも見える。しかし、見方を変えてみると、既存の宗教がある地域にしか浸透できずにいたとも言えるだろう。しかもこの聖典の翻訳という正確から、その地域にマニ教が浸透すればするほど、教祖の教えからは遠ざかり、本来の姿を失い同化してしまうという弱点も含んでいた。そのため、マニ教は宿主になる宗教があってこそこれだけの範囲に拡大したに過ぎず、しょせんはキリスト教、ゾロアスター教、仏教に寄生して達成されたにすぎないと青木健氏は述べている。

 さらに、動かしがたい事実として、天山ウイグルの国教に採用された一時期(9世紀後半~10世紀後半)を除けば、マニ教が確固たる基盤を築いたことは歴史上になかった。以下は10世紀前半のトゥルファン出土マニ教寺院経営令規文書である。

マニ寺にあるいかなる・・・業務であれ、両呼嚧喚が幹事たちとともに・・・差配すべし。Kadma碾磑の(収入の)五百官布のうち五十官布はKadmaに与えよ。そして残った四百五十官布は寺男用(および)侍男・侍女の冬の衣服・長靴とすべし。綿花製の棉布(六十棉布)・・・(侍男・)侍女用の夏の衣服とすべし。両僧団の僧尼たちの食事が(不平等に)ならないようにせよ。一月間、一人の呼嚧喚が一人の幹事と共に当直となって監督をし、食事をうまく作らせよ。さらに(次の)一月にはもう一人の(呼嚧喚が)一人の幹事と共に当直になって監督をし食事をうまく作らせよ。どの月の食事が悪くても、その月の呼嚧喚は幹事と共に刑に就くべし。両呼嚧喚は幹事たちと共に当直になって、忌むべき(?)料理人たちとパン職人たちを監視し続けよ。(中略)マニ寺で何か要件ができて、聖慕闍に秦上に入るときは・・・以前の規定通り、呼嚧喚たちは幹事を伴わずして入るべからず。幹事たちも呼嚧喚を伴わずして入るべからず。呼嚧喚たちは幹事たちと一緒に立ったままで秦上すべし。

 このようにウイグルにおいて国家がマニ教を保護していた時期があったのであるが、このウイグルにおいても、10世紀の後半の全盛期以後、仏教によりその国教的位置を奪われることになる。

 こういった事実もまた、マニ教は、宿主としての宗教があり、それによく似た別物として存在してきたことの裏づけではないだろうか。
 
 そして、各地に広がった際にも、翻訳の際に起きるわずかな言葉のニュアンスのずれが起きたため重大な混乱が引き起こされたといえる。例えば中国でのマニ教はその聖典を仏典のように作り仏教の体制を取ってみたり、道教の経典に化けてその一派であるかのようにした。その結果それぞれの宗教からは異端とみなされ弾圧、排斥されていった。それはキリスト教やゾロアスター教の中でも同様である。

 また、マニ教はその二元論的性格からゾロアスター教に影響を受け、キリスト教と結合したものであるという見方が非常に強い。しかしこの二元論という部分は、「ゾロアスター教からマニ教への一方通行」とは簡単に割り切れないと青木健氏は述べている。

 なぜならば、現存するゾロアスター教の資料は9世紀のパフラヴィー語文献しかなく、しかも、5~6世紀にゾロアスター教思想上の大変動があったと考えられているのである。そうすると、現存資料から判明するゾロアスター教像は、マニ教より時代が下がった部分に限定されるのである。

 この状況は、マニ教の内部資料からも明らかになっている。例えば、ある中世ペルシア語讃歌では、マニ教教会が「ゾロアスター教がぜんぜん二元論的でない」と非難しており、その影響は10~11世紀のウイグル語文献「ハーストワーニーフト」にまで及んでいる。つまり、3世紀のマニ教から見れば、目の前にあったゾロアスター教は、まったく二元論的ではなく、むしろ一神教に近かったという。

 このことは、マニ教が単に他宗教の教義の寄せ集めではなく、きちんとしたオリジナリティーを持っていた可能性があるとみていいのではないだろうか。

第三章 『告白録』から読み解くマニ教


 ここでは、アウグスティヌスが『告白録』に記した内容からマニ教について考察していきたい。『告白録』においてマニ教との出会いについては、その教義の本質を突きながら非常に批判的に書かれている。

私は、傲慢で気の狂った人間たち、きわめて肉的でおしゃべりな人間たちの中に落ちこんでしまいました。彼らの口には悪魔の罠がひそんでいました。すなわちあなたの御名と、主イエス・キリストの御名と、われらの弁護者でなぐさめ主なる聖霊の御名との音節をこねあわせてつくったとりもちがふくまれていました。

[『告白録』:114]

 このことから、マニ教はキリスト教的な部分が多くあったようにも思われる。そして事実、教祖マニ自身は自らを「イエス・キリストの使徒」と名乗っていた。このことは、アウグスティヌスの著作『基本書と呼ばれるマニの書簡への駁論』において確認できる。

(前略)『基本書簡』とあなたがたが読んでいる、あの書物を調べてみることにしよう。(中略)確か、それは次のように始まっていた。「父なる神の摂理によってイエス・キリストの使徒となったマニ。これは、永遠なる生ける泉から出た、救いのための言葉である。」(中略)それではたずねるが、あのマニとは誰か。あなたがたは、「キリストの使徒」と答えるであろう。

 このことから、マニ教はキリスト教の一派であったとも言えるかもしれない。前述した、アウグスティヌスがマニ教に入信した理由はこの部分からも考察できる。マニ教は「真のキリスト教」を自称し、アウグスティヌスにもそのように思われたかもしれない。つまり、彼は、キリスト教を捨てて異教に走ったのではなく、幼い時から母モニカによって育まれてきたカトリック教会の信仰への疑問、反発から、真のキリスト教、真の知恵を求めて、マニ教に入信したということである。
 アウグスティヌス自身がマニ教を、キリスト教の一派だと思っていた可能性は『告白録』においてさらに語られている。

 食台にのせて供されたのは、ぎらぎらした幻影でした。そのような、目をとおして見る人の心を欺く虚偽のものを愛するよりは、すくなくとも見る目にとって真実なあの太陽を愛するほうが、むしろよかった。にもかかわらず私は、それがあなただと思ったので、食べていました。しかしがつがつと食べたわけではありません。それは自分の口に、あなたのような味わいのあるものではなかったし-あなたはあのむなしいつくりごとではなかった-、私は食べて養われるどころか、ますますおとろえていったのです。

[『告白録』:114]

 このようにアウグスティヌスは、マニ教の教義をキリスト教のものであると勘違いしている。この為、マニ教はキリスト教マニ派といった呼び方もできるかもしれない。そして、この時のアウグスティヌスにはマニ教の不合理な部分を指摘できるほどの知識を持っていなかったことが次のことから分かる。

「悪はどこから生ずるのだ」
「神が有限な身体の形を有し、髪の毛や爪などをもっていることがありえようか」「同時に何人もの妻をもち、人々を殺し、動物をいけにえにささげるような者たちを義人とみなすべきであろうか」
 などと問われると、いたいところをちくりと刺されたかのようにひとたまりもなく動かされ、このおろかな欺瞞者たちの意見に同意してしましました。

[『告白録』:118]

 旧約聖書のいうように、神が万物を創造したのであるならば何故、悪を創造したのであるか、神が人間の形を有しているならば人間は神の似像なのか、などとマニ教は旧約聖書も批判し、キリスト教を攻撃していたということが、この質問から分かるだろう。

 この「悪」の問題に関しては、アウグスティヌスは後に、新プラトン派の書物から「悪」とは「善」の欠如によっておこりうるものであるとさとり、この問題を克服している。

 そして、キリスト教において、神の似像とは、肉体的なものではなく、人間の知性ないし精神に関して、霊的な意味合いで使われる。これをマニ教徒は誤解して、攻撃していた。

 前述の通り、マニ教は教祖マニ自身が直接書き記したものが聖典となっている。当然、この時、アウグスティヌスに質問していたマニ教徒は、その聖典を頼りに布教を行っていたであろう。そのため、このキリスト教に関しての誤解は教祖マニ自身の誤解であったと言ってもいいのではないだろうか。

 青木健氏が指摘している、マニ教は完璧な教祖のために教義が発展しなかったという点はこの部分からも読み取れる。キリスト教のように聖典の解釈が派閥により様々におこなわれていれば、このような質問に関してもマニ教において優秀な弟子が現れ、違った形でキリスト教と戦っていけたのではないだろうか。実際、キリスト教においては、イエス自身は何も書き残しておらず、イエス死後の弟子たちの活動による成果が非常に大きい。しかし、マニ教にはその性格上そのような優秀な弟子が現れる余地はなかったため、今日まで残らずに消滅してしまった事実は必然と言わざるをえないかもしれない。

おわりに

第一章においては、アウグスティヌスの『告白録』の全体的な内容についてを確認し、彼の性格面、家族構成、また当時のローマ帝国の教育状況などをみていった。また、幼少期のアウグスティヌスどういったものに興味を抱いていたか、カルタゴへ遊学に行った時何があったかなどをみていった。そして、カルタゴにおいて、アウグスティヌスが何故、マニ教に惹かれ入信するに至ったかを考察した。

 第二章においては、アウグスティヌスが入信したマニ教についての確認を行った。何故、マニ教は一時期世界中に広がったのか、そして、二元論はゾロアスター教からマニ教ではなく、その逆であった可能性を青木健氏の説から紹介した。

 第三章においては、『告白録』から読み取れる、マニ教徒の姿を表そうとした。その結果、アウグスティヌスが何故マニ教に心惹かれ、入信するに至ったかということに関しての考察を行うことが出来た。また、マニ教徒は教義の性格上優秀な弟子も現れておらず、教祖マニの言葉から脱け出すことができずにいたため、キリスト教との派閥争いに敗れてしまったのではないだろうかという一説を提案することができたのではないだろうか。

 アウグスティヌスがマニ教からキリスト教に改宗する時期は、当時のローマ帝国内においてのキリスト教の地位が向上するタイミングとほぼ一致していることから、非常に世俗的な部分があったようにも見える。また、彼の著作のほぼ全てがキリスト教改宗後という点も不審に感じられる一つである。そのため、基本的にはアウグスティヌスに対して厳しい評価していくつもりで本論の準備をしていた。

 しかし、『告白録』を読んでいくと、アウグスティヌスは神に対して自らの罪や人生の過ちについての告白を真摯に行っていた。そして、彼の人生は常に「真理」を求めることに向けられていたというような印象を得た。その「真理」を追い求める過程でマニ教は存在していたのである。そして、アウグスティヌスはマニ教を虚偽の教義であると見抜いた後、キリスト教に改宗した。そこで彼の求めていた「真理」にたどり着いたようである。

 アウグスティヌスの母モニカはキリスト教とであった。そのため、彼の求めていた「真理」は生まれた時からすぐ近くに存在したのである。しかし、若いアウグスティヌスはそれに気づくことはなく、遠回りをしてようやくそこにたどり着いたということになる。

参考文献

山田晶 『世界の名著14』 中央公論社 1968年
山田晶 『アウグスティヌス講話』 講談社 1995年
高橋亘 『聖アウグスチヌス「告白録」講義』 理想社 1966年
岡野昌雄 訳 『アウグスティヌス著作集 第七巻』 教文館 1979年
大貫隆 島薗進 高橋義人 村上陽一郎 『グノーシス 影の精神史』 岩波書店 2001年
P・ネメシェギ 著 熊谷賢治 訳 『聖アウグスチヌスの生涯』 創文社 1963年
宮谷宣史 『アウグスティヌス 人と思想39』 清水書院 2013年
長谷川宜之 『ローマ帝国とアウグスティヌス』 東北大学出版会 2009年
ミシェル・タルデュー著 大貫隆 中野千恵美 訳 『マニ教』 白水社 2002年
青木健 『マニ教』 講談社 2010年
小川英雄 山本由美子 『世界の歴史4 オリエント世界の発展』 
中央公論社 1997年
桜井万里子 本村凌二 『世界の歴史5 ギリシアとローマ』 中央公論社 1997年
ウイリアム・H・マクニール著 増田義郎 佐々木昭夫 訳 『世界史 上』 中央公論新社 2008年


10数年ぶりに読み返した感想は、「え?ここでおわり?」だった。色々なものを広げに広げて、結局まとまりのない感じになっている気がする。文章的にも気になる点が多々あるが、まぁ仕方ない。今の文章も10年後見返したら同じような感想を抱くのだろう。

でも、マニ教が現在まで残らなかった理由は面白かった。教祖自体が完璧な教義を整え、他者の解釈の余地を無くした点が弱点になったという点は、今でも色々な部分に言えそうな話だと思う。

法律でも解釈の余地があるらしいし、ガチガチに決めすぎるのは良くないのかも。柔軟に対応できる点が強みになることは多い。

それに、「真理」が生まれてからすぐそばにあったにも関わらず、遠回りしてたどり着く感じも人間味があって良い。失敗してみないと気が付かないこともあるし、こういったことは他にも当てはまりそう。

それにしてもアウグスティヌスはキリスト教への改宗後、これまでの生活を懺悔するかのようにとんでもない量の著作を書きまくる。『告白録』もその中の一部ではあるが、何が彼をそこまで駆り立てたのか。しかもしっかりとキリスト教内において地位を確立している。とんでもない才能。文章を扱う人間の端くれとして、どういった感情があったのか興味が湧く。信仰心といえばそれまでなのかもしれないが。

昔の人も今の人も、同じように悩みを抱えて生きていると思うとこれから先の人生頑張れる気がする。歴史を知るってこういった側面もあるから楽しいですよね。

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