日記のような何か②「可愛いとか、エモいとか」について
今日の話題はこちら。
『可愛い、とか、エモい、とか、ひとつのいろんな意味を包含する大きい概念が多くの人を評価するうえで強い軸となってしまっている、と思う』
わたしは人を評価するのが苦手だ。また評価されるのも苦手だ。
人と関わる中で、素直に思った相手のいいところを褒めることは好きだけど、○○さんについて具体的にいいところと悪いところを挙げてくださいと言われれば困ってしまう。
なぜなら相手のことをよく知らないで評価することはできないし、急に的確な語彙が出てこないから。
ずっと一緒にいる親友と呼べるような人物でも、評価はやっぱり難しい。
でも、じゃあ評価しなければいいのか?と言われればそういうわけでもない。
評価することそれ自体は必要。私も頑張ったら褒められたい。あわよくば頑張らなくても褒められたい。正しい評価は人を伸ばすことに役立つと思う。
でも、無意識に人を評価してしまっていること、は別の問題。
そして、その無意識の評価が相対的な漠然とした概念を軸として固定されていることに辟易している。
どういうことか。具体的に言えば、
学校に行けば「賢い」
就職活動をすれば「優秀」「視座が高い」
女性であるだけで「かわいい」
写真をとれば「エモい」「映える」
何が悪いの?と思った人も多いと思う。
これらの言葉を眺めて、よく考えてみてほしい。一般的に使われるこれら「ほめ言葉」はどれも相対的な評価であることに皆さんは気づいているのだろうか。
そして、どれも大きい概念、つまり解像度が低い言葉ばかりだ。
生きているだけで、わたしたちは他人と比較して優れているかどうか「なんとなく」で評価される。
評価される側も、それを甘んじて受けてしまっているから、思うような評価を受けられない時につらくなってしまうのではないか。
みんな、頑張っていることはバラバラで、個性があって、できることとできないことがある。あって当たり前。でもそれを評価する側も、される側も、なんとなくは分かっているけど、実際にそれが受け入れられる社会には、少なくとも現時点ではなっていない。
金子みすゞさんのあまりにも有名な詩の一説に「みんなちがって、みんないい」があるけれど、ほんとに、今のみんな(特にネット上)にかけているのって、この部分じゃないかと思う。
ここから脱出するために、いろんな意味を包含する大きい概念を分解していかないといけないと思う。評価する側も、される側も。
例えば、賢いって、なんで賢いのか、どこがどういう風に賢いのか、そもそも、賢いことだけが評価基準ではないのではないか?
あとは、そのざっくりした概念以外の世界があることも知ってみてほしい。女の子のは可愛いか可愛くないかだけで測られることではない。表情、性格、化粧、髪型、行動、言葉、知性……表面的な部分じゃなくて、もっと奥深い「人間」であるはずだ。
この世の中で、その人を正しく評価するのにもっと見るべき観点があるはずだ。それを知るために、相手自信を、また概念そのものを疑い、見直し、学ぶことを怠らず、学ぶ姿勢を持っていたいものだ。
そして、そんな深い言葉で、正しい評価そして高めあえる社会になればいいな。
今回はここで30分。
ではまた。
↓第1回
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