【.*何もない人に支援の手をってキャッチコピーどう思う?*.】

最近新しいプロジェクトを進めているため、
チラシを作ろうとおもってテンプレートサイトを使用しました。

そこで度々目にしたテンプレートのキャッチコピーが
「何もない人に支援の手を」でした。
発展途上国や飢餓に苦しむ地域への国際支援を行っている団体さんのものだとお見受けしました。
(活動自体とても素敵で、尊敬しています。)

「何もない」ことってほとんどないと思います。
日本だと、物に溢れてるけど、時間がなかったり、人の暖かさがなかったり。

マズローの欲求段階説という概念がありますよね。
生理的欲求
安全の欲求
愛・所属の欲求
承認欲求
自己実現・自己超越の欲求

日本人に「何もない」といわれたことのない人たちは
生理的欲求・安全の欲求は満たせずとも
きっと仲間と認めって与えあって生きている、というかそうではないと生きてはいけないから。

一方日本人は、生理的・安全の欲求は当たり前に満たされている人の割合が多く、協力し合う機会が少ない分人間関係や承認欲求が満たされにくい人が増えているという印象を持っています。

その理由は、「人を貶める人の多さ」です。

テレビやネットの誹謗中傷、リアルな職場での愚痴、いじめ。

悪口を言うことで仲間意識を持つ
人を指摘することで、指摘できる自分が上だと承認させたがる。
それが的を得たことでなくても、それを認めさせようと躍起になる。(論点ずらし)
そうでもしないと保てない人が増えているんだなあと感じます。

冒頭のキャッチコピー
「何もない人に、支援の手を」

何もないからしてあげているという無意識な自己肯定。
それは即ち自分の欲求を満たしてもらっているに過ぎないと思っています。
いい悪いではなく、それを自覚することでお互いが豊かになると思っています。

親子関係、職場の上下関係でもよく目にします。
「できないからやってあげる」
失敗したら「ほらやっぱりできない」と叱られる。
親が自分を正当化したいがために失敗を創り出す。
上司が威厳を保つために失敗を創り出す。

なんだか虚しくなります。

今まで「やってあげている」と思っている人に押さえつけられてきました。
もちろん「やってもらっていること」自体はいいことなのかもしれません。
でも、大事なのはその根源です。

承認欲求を満たしたい人は、成長を許してくれなかった。
そのまま優越感を持ち続けたいから、成長を許してくれなかった。
あれこれ指摘してストレス解消したいからできないままでいてほしかった。
これが、無意識であり自覚をしていないため、最終的に行きつく先は
「あれだけしてやったのに」「恩をあだで返すのか」です。

一方で、本当に「あなたのために」と願って手助けしてくれる人は、成長し手を離れることを喜んでくれます。
手助けさせてくれたことを、喜んでくれます。
寂しさはあれど、喜んでくれます。その先を楽しみにしてくれます。

物がないところは見えないものがある
物があるところは見えないものがない
物事は常にバランスがあるんだなあと感じる日々です。

「自分のために、支援する」
「あるものを分け与えているだけ」
そんな感覚で生きていければ平和なのかなって思います。

人のことより、まず自分。
これからもそれを常に気を付けていきたいと思っています。