宝石を宝石たらしめるもの
上野科学博物館の特別展「宝石-地球がうみだすキセキ」に行ってきたのです。
展示の最初の章で、いかに宝石は地球によって育まれてきたか、どんな工程を経て「原石」から「宝石」になるのかが紹介されていました。なかなか見ることができない大きな原石もたくさん目にすることができました。
水晶や黄鉄鉱のような、すでになんだか尋常じゃなく煌めいているものもあれば、岩の一部にくっついてくすんでいる状態のダイヤの原石や、青白く濁った石ころみたいなサファイヤの原石が並び・・・
ちょっとギョッとします。
これは素人では簡単に見逃してしまう。
原石でも「石ころ」に見えるのに、それが切り出した「ルース」(裸石)になっても単なる「くすんだガラス」に見えてしまう。そう感じると、危機感はますます募ります。
危機感とはつまり、それがダイヤモンドでも自分は気づかずにうっかり捨ててしまうに違いない、という思い。見る目がないことの怖さ。
展示を見進めるにつれて、強く強く感じることになります。宝石を宝石たらしめるのは「カット」であり「研磨」だと。
原石がいかに大きくても磨かなければただの石。ダイヤはカットして磨いて磨いてやっと『なる』ものだということを、目を逸らしようもないほど感じます。
危険や劣悪な労働環境の採掘場があることも知っています。そこでやっとほんの一握りの原石を掘り出して、それでも売り物になる石はごくわずか。傷のない、曇りのない、高値のつく石などどれほどあるでしょう。気の遠くなる労力の果てからまた選んで選んで、そこから職人が磨く・・・。そこまでしないと多くの人にとっては「石ころ」なのです。
結晶・・・。
これがなんの結晶なのか、もうよくわからなくなってきます。欲の結晶でもあるし、技術の結晶でもあると感じます。化学の結晶でもあれば、歴史の結晶でもあるような、この炭素のかたまり。
磨いたって人によっては「美しいただの石」なのです。
美しい人を見るときは「じっと見ちゃいけない」と恥入りためらいますが、宝石にはそのためらいは必要なく、じっと見てもゆるがないの硬度のある美しさと減らない輝きに惹きつけられます。
自分で手にしたいとは恐れ多くてとても思えないこの希少な宝石群。でもどうしても惹きつけられるのです。そこに何を見るのかといえば、高い屈折率から生まれる抱き込まれた光の輝きと、七色の光の分散。それがまた高い技巧を施された宝飾品になるのです。そこには恐ろしいほどにありありと「価値」が込められています。
怖い・・・・。
シンプルにそう思いました。美しすぎる、価値がありすぎるものが呼ぶのは、決して幸福だけじゃないのです。
その怖さがわかる。
恐れ多くて欲望することもできないけど、それでも目の奥に第3章の展示で並べられたダイヤモンドのルース(裸石)とラウンドブリリアントカットのダイヤモンドの比較展示が浮かびます。
人類がみんな何かの原石であるとしても、宝石になるのは磨いた人だけ・・・。
磨くという行為には長さが必要で、長く長く続けることが何より尊いとされる理由がそこにある気がするのです。些細な摩擦でも、触れ続けたら光沢が出てくることを、観光地の青銅の彫像は教えてくれます。大事に触れ続けることが研磨になること。
命に、ゆっくりでも優しく手を入れ続けること・・・。
今日いつもお世話になっているネイリストのお姉さんに、上野の宝石展で見てきたことを話しました。お姉さんはとてもお話を聞くのが上手で、私の手に迷いなくさくらんぼを描きながら「それは見てみたいですね」と相槌を打ってくれていました。
このネイリストさんはほんとうに接客技術が高く施術も上手で、ほかの方より30分くらい仕上がりが早いのです。なのに出来上がりが綺麗で、その差は一体どこに、、、と思いながら、手際の良さに見入っていました。
今日も普通より30分早く終わり、わたしは感心しながら言いました。
「たとえダイヤでも磨かないとただの石って思いましたけど、●●さんは技術を磨いてダイヤになっていってるんですねぇ」
惚れ惚れとそんなふうに話したら、●●さんの顔がパァッと光りました。
「うれしいです。実は、夏にここを辞めて独立するんです」
ネイリストとして自分のお店を持つのだと教えてくれました。すごい。今の不景気の世界でその決断を。
高いコミュニケーション能力と技術を持つ方だったけど、きっと不安も大きいはず。そんな●●さんに今日「ダイヤになっていってるんですね」と言えたことが、なんだかとても大事なことに思えました。
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末次由紀のひみつノート
漫画家のプライベートの大したことないひみつの話。何かあったらすぐ漫画を書いてしまうので、プライベートで描いた漫画なども載せていきます。
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