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「それはいまだ。」『線上に架ける橋』を読む。

随分前のことだけど、新横浜の日産スタジアムでB'zのライブを見たことがある。60000人収容の巨大スタジアムを声援でいっぱいにして、2人のアーティストがその壮大な空間にふさわしい迫力で「Ocean」を歌い演奏する。間違いなく日本のトップの存在なのに、でもどうしても、私には稲葉さんが「なぜ僕はここにいるんだろう」と思いながら歌っている気がしてならなかった。
スタジアムの端っこからは稲葉さんも松本さんも「左右に動く点」にしか見えない。求められるサイズで言ったら本当は10メートルの身長くらいあっていい。
「でも僕らは本当はこんなに小さいんだ」
巨大スタジアムを埋め尽くすファンの前で、B'zはそこに立つのにふさわしいトップアーティストなのに、そんな風な戸惑いがずっとあること。
だからこそ彼らはスターなのだと、苦しくなりながら納得した記憶がある。


3月28日発売のCDBさんの著書を読みながらそんなことを思い出していた。
書評集の中に「ちはやふる」の映画の話を載せていただいているご縁もあって、送ってくださった「線上に架ける橋」。
2018年〜2022年初頭のエンターテイメント批評が28つの章で語られている。「なつぞら」「鬼滅の刃」「いだてん」「刀剣乱舞」「エヴァンゲリオン」「広瀬すず」「山崎賢人」「土屋太鳳」「三浦春馬」・・・

読みながら、ああ本当にこの本は、今読むべき本だと思った。
このたった4年ほどの間に、どんなふうに私たちは新しい物語に触れ、新しい才能に触れ、炎上をやりすごし、未曾有の疫病と闘ってきたか。
そしてそれをどうTwitterをはじめとしたSNSで見て聞いて書いて騒いできたか。その流れとうねりは歴史の軸で言ったら本当に小さな波だけれど、確実に私たちの毎日に寄せては返していた。
あの作品に触れたあの瞬間の「ファン」の心の動きがとても良く書き残されている。

「それってどんな・・・?」と思う方のために、不勉強ながら私がゲームもアニメも映画も全く触れることなく来てしまった「刀剣乱舞」の映画版をテーマにした一章を引用したい。

「それはいまだ。『刀剣乱舞』と言うコンテンツにとって、それはいまだ。もしもあなたがかつて何かのサブカルチャーを愛した子どもであったなら、「上手く言えないけど、とにかく樋口真嗣という特撮監督がとる怪獣は他の怪獣映画と違うんだよ」と周囲に熱弁したことがあるなら、クレヨンしんちゃんの『嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲(2001)が秘めた誠実さに打たれたことがあるなら、いつの日かこのクイーンという風変わりなバンドの物語を全世界が知る日が来るんだと信じたことがあるなら、SFや少女漫画やロック、小さな池で育ち大きな海へと泳ぎ出した文化たちと過ごした日々をいまも深く記憶しているなら、あなたは劇場でかつての自分達のような、新しい世代の文化が羽化する瞬間を見ることができるだろう。

「文化が羽化する時」ー劇場映画『刀剣乱舞』と小林靖子

もう・・・もう・・・もう・・・・
ゲームもアニメもなんにも履修してないけど、観ます〜〜〜〜〜
ここまで言葉を尽くして、言葉っていうか自分のDNAになっているであろう創作物を並べて、それらと同じような時代の変わり目が「いま」なのだと、こんなに言ってもらえる作品ってどんななの??

書評を読みながら、そこに溢れる愛でふるえるということがあるのだ…。いや、でもそんなの毎回じゃないでしょう・・・と思いつつ読み進めるのだが、どの章でも心が震えて泣きそうになるのだ。これはどういうことなのか。

「いだてん」の章などは圧巻だ。あの表現することの難しい時代を圧倒的な脚本術で描いた宮藤官九郎も圧巻ならば、その苦悩をその難しさを丁寧に書評したCDBさんの文章も圧巻だ。 私は大河ドラマ「いだてん」を通して3回くらい見たので(HDDに録画してとってある)「刀剣乱舞」とはまた違う熱さでこのこの書評を読んだが、読んで尚且つ作品へのリスペクトが上がる。 クドカンが静かに過去と現在と未来の巨大な空気と闘っていることを感じるからこそ、CDBさんの


「いだてん」で宮藤官九郎が描こうとしたものは、80年前に日本を覆った歴史の津波の高さなのだと思う。それは政治はもちろん、スポーツも、サブカルチャーも、全てを飲み込んだ。(中略)
宮藤官九郎が「いだてん」で描いたのは、落語やスポーツやフェミニズムという、戦前に勃興した若い文化力が戦争という巨大な津波に飲まれる、その敗退のプロセスだったのだと思う。

落語家はカタストロフのみを見る−『いだてん』

という指摘がどれほどクリティカルなものかとわかる。
私たちはもうわかっている。津波も歴史も「この高さまで繰り返すよ」と言っていることを。
そのことを描いて批判されたり愛されたりする稀有な脚本家のことを、その才能を、CDBさんがどれほどリスペクトしているか、計11ページに凝縮されたこの章で伝わるのだ。

作品批評の中にたくさんの「ファン」の記述がある。「観客」や「ネット」などエンターテイメントの受け手を表現する言葉を使う時と、「ファン」という言葉を使うときの温度は明らかに違う。

「あまちゃん」から「私の恋人」に至るまでの長いメディア出演の空白の中で、多くのファンやクリエイターたちが彼女に表現の場を与えるために奔走した。(中略)ファンたちは彼女の情報がまったく途絶えていたあいだもイラストを書いたり、ドラマを見返したりして彼女への想いをつないできたし、音楽活動にも多くのミュージシャンが関わった。

君がそれを作れば、彼女はやってくる–能年玲奈、のん


その作品に触れている時間「何かから解放する」のがエンターテイメントなのではないか、少なくとも「楽しい時間を過ごしてほしい」と表現する側が思っていることを知っている。私も漫画を書いて生きてきたから。

でもCDBさんの眼差しは祈りであり慈しみであり心配であり、「どうか健やかあってくれ」という叫びだ。
演じる役者さんやエンタメ作品のことをいつもいつも心配している。同時代に生まれ、同時代に味わい、同時代にやるせなさを共有した存在の、これからも続くクリエイティブを祈るエールに満ちている。
CDBさんはご自身を含むそういう存在のことを「ファン」と表現しているのではないだろうか。

CDBさんは知っているのだろう。「愛されること」は時に「奪われること」であることを。
6万人に愛されたら、6万人に何かを返さないといけなくなることを。そんな過剰な愛情を受けて、この人は大丈夫なのだろうか、私たちは愛しすぎてはいないだろうか、奪いすぎてはいないだろうか。B'zの歌を全身で聴きながら不安で戸惑った日産スタジアムの私のように。

作品を見て「面白かった」「イマイチだった」と言うだけ言って通り過ぎていくことを「消費」と呼ぶならば、CDBさんの書評は「食事」であり「植樹」だ。

味わうことの後にくる対価をきちんと払い、提供者がこれからも活動できるよう祈るように書くレビューに、別の誠実なファンが続く。

流れる川の水が乾いた土地に吸い込まれていくように、静かに、本当に重要な拡散は起きているように思えるのです」という前書き部分の記述が特に印象的で、赤いボールペンで線を引いた。

アーティストを愛す時、心配する時、「この川がいつか枯れたらどうしよう」とわたしは思っているのかもしれない。物語や音楽に染み入るように救われてきたから。そんな感覚に「川の水が乾いた土地に吸い込まれていく」という表現がぴったりで、だからこそ「川の水が枯れたらどうしよう」と思ってしまう。
それが川じゃなくて海かもしれなくても、私は心配する。その私の心配が、愛情が、同じように「乾いた土地」から物語を作るクリエイターのカラカラの大地に吸い込まれていくことを知っている。
「Ocean」を歌うB'zは間違いなく海だった。それでも私は心配する。

「線上に架ける橋」は、物を作る誰かを愛する心に染み入るいまの時代の優れた批評集だ。
どうかまたこの先も、CDBさんの文章が本の形で読めることを強く願う。私もあなたのファンの1人であるのだから。

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