「我を読むなかれ[Noli me legere]」

(このnoteは田中翠香さんのツイートに対する山﨑修平さんの応答に対する私の応答を修正せざるを得ないと結論付けたため、書かれたものです。)

「我を読むなかれ」(モーリス・ブランショ)

「普通」とはどういうことか。
迂回して考えよう。「普通じゃない」とはどういうことか。「みんなと違う」ということだろうか。しかし、最初に何かをやった人は、だいたい笑いものになったはずだ。たとえば最初に傘をさした人はきっとみんなに笑われた。しかし今ではみんな傘をさしている。また、最初にズボンを履いた女性はきっとみんなに笑われた。しかし今ではみんなズボンを履いている。つまり、昔は普通ではなかったことも、時代が変わると普通になることがある、ということだ。
「普通」とは、通常人が抱くような「みんなにとっての当たり前」という意味だと解せられている。しかし、普通とはその人がいる環境によって異なる。ある人にとっての「普通」は、他の人にとっては「特殊」だったりする。人それぞれ「普通」は少しずつ異なる。たとえば、豆腐屋は毎朝4時に起きるのが普通である。また、目が見えない人は、音や手足の感覚、匂いなどを使って生活したり町を歩いたりする。
端的にいえば、「普通」とは通時的にも共時的にも、「みんな」の合意の取れない概念である、ということだ。

結論をいえば、「普通」とは「その人の基準」のことである。なぜなら、その人その人で普通と思っていることが異なるからだ。従って、みんなが思っている普通など、この世界にはない。
「普通の生活を送っている」と言う時、そこに仮託されている「普通」とは人によって千差万別の意味合いを持つ。

次に属人的な批評についてだが、ロラン・バルトの有名な「作者の死」というテーゼはもちろんのこと、フランスの哲学者モーリス・ブランショにおいては、芸術作品は生み出された途端に芸術家の手を離れ、と同時に鑑賞者からも身を引き離すものである。書物はこの世に生み落とされたときから、あらゆる意味において媒介され、作者からも読者からも隔てられたものとしてある。それをブランショは芸術作品の「本質的孤独」として考えた。作家は自らが書いた書物に「我を読むなかれ[Noli me legere]」と追い返されるのだ。

最後に、文学の特権視について触れておきたい。
文学を特権視する必然性はない。皇居ランナーもボルダリングも文房具屋もガラス拭きも場末の居酒屋もキャバ嬢も等しく「世界に一つだけの花」「もともと特別なonly one」として一回きりの生を生きている。そこに優劣や上下はない。

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