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#207 気持ちよく放置!自分は違う意見だけど尊重します!でよくないか?

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

一橋大学ビジネススクールの楠木建先生がよくお話されている話から、普段よく感じていることを話してみたいと思います。


「カツ丼・天丼 良し悪し議論」

楠木先生の話とは、「人の好き嫌いで終わる話を、イチイチ良し悪しの話にすり替えようとするから話が拗れる」というものです。「私はカツ丼が好き」「私は天丼が好き」というのは好き嫌いの話で、「なるほど、そうなんですね」で終わる話。
しかし、多くの物事に対して、この好き嫌いの話が良し悪しの話にすり替えられるケースがしばしば。「いやいやカツ丼よりも天丼の方がいいに決まってるだろ!」「何をいう!天丼の方がカツ丼より素晴らしいはずだ!」みたいな感じですね。

カツ丼と天丼の話であれば、この議論がなんて馬鹿げたものなんだ、と気付けるのですが、人の価値観に関する話や、一見それっぽいテーマになると、この「カツ丼天丼の良し悪し議論」にすり替わってることがまぁ多い。

これ、日常の色んなシーンで、何か揉め事が起きたり、誰かに突っかかれたりしたときに、「これ、もしかしてカツ丼天丼良し悪し議論では?」という視点で見てみると、意外に多いことに気付くと思います。
私は確か楠木先生がこの話をされているのを聞いたのが、確か5年前くらいです。
それ以来、日常のあらゆるシーンで何かの議論をふっかけられた時には、「カツ丼天丼良し悪し議論」を思い出すようにしていて、「あ、始まったな」と捉えられるようになってからは、こちらも同じ熱量で応対することが馬鹿らしいと思えるようになり、割と生きやすくなった感覚があります。

今でも覚えているのが、私が中学生の時に、学校で「Mr.ChildrenとGLAYのどちらが良いのか議論」をよく持ち出してくる同級生がいたんですね。
自分は当時、ミスチルのデビュー当時のアルバムから買い漁って、マイナーな曲も全て知っていて、昼の放送でいかにマイナーな曲を学校で流すか考えていたくらいミスチルが好きだったのですが、GLAYが好きなその同級生は、ことある度に突っかかってきて「GLAYの方がミスチルよりもいかに素晴らしいか」を話し、論破してこようとするのです。

これ、すごく分かりやすい「カツ丼・天丼良し悪し議論」なわけで、私も「GLAYもいい曲たくさんあるよね」で応対するのですが、その人は何がなんでも「ミスチルよりGLAYの方が優れている」と言わせたい。
音楽の話になるたびに、こんな議論をしなければならず、当時は中学生なりに結構ストレスを溜めていたのを思い出します。
このエピソードに限定すれば、「中学生で人間性がまだ未熟だから」で終えられるはずですが、大人になってもこれと似たような議論、結構見かけませんか?

根底には、何でもマウンティングしないと気が済まない精神があるのでしょう。
「自分はこれがいいと思う」「自分はこれが好き」と言っている人を見ると、即座に何かの基準を持ち出して、「いやいや、その考え方は間違っている」とか「こういう視点が抜けている」とか言いたくなる欲。

「ふーん、その人はそういうふうに考えるのね」、で気持ちよく放置!でいいと思うのです。それが価値観というものだから。
以前、とある地域に住んでいる方とお話していた時に、「この地域はとても暮らしやすい。なぜなら、住民がお互いに干渉しすぎず、いい意味で他人に無関心だから」とお話されていたのが印象的でした。

今年の3月に3歳と0歳の子どもを連れて、2週間の子連れオーストラリア旅行に行ってきましたが、その時に力強く感じたオーストラリアの「寛容性」。
色んな服を着ている人がいて、移民国家で様々な国籍の人がいて、お互いがそこにいることをそのまま受け入れているような空間。

そこにあること・存在するもの・意見を、そこにあるものとしてそのまま受け入れる。これがすなわち寛容性というものと思います。寛容的でない空間というのは、「〜〜すべきだ」の論法で、イチイチ他人の生き方、行動に口出ししたくなる人が溢れている場所です。そんなストレスフルな空間で、お互いにマウンティングし合って心をすり減らしてしまうのって、何だか空虚です。

こうやって言葉にするといかにそれがスケールの小さい話か、という気がしてくるのですが、意外にこういうシーンって皆さんの周りにも溢れていませんか?

人間なので、大小あれど誰もがマウンティング欲を持っていると思っています。自分が「あれ、いま自分はカツ丼・天丼良し悪し議論をふっかけているのでは?」ということを、ことある度に見直すよう気を付けたいところです。特に「〜すべき」とか「普通そうでしょ?」って言っている時は危険信号を鳴らして自制しないとです。30年以上生きてきても、まだまだ未熟な自分です。

「多様性が大事」と叫ぶ人ほど、多様性を認めていない

他に楠木先生が指摘されている論点でなるほど!と思わされたのが、この話です。本当に社会に多様性が大事なのであれば、「社会には多様性なんて必要ない」という話も当然あって然るべき。
そもそも、人間が一人として同じ人がいない時点ですでに多様なのであって、本来わざわざ「多様性」という言葉を持ち出すほどの話ではないはずです。

最近では、多くの企業や地域で「ダイバーシティ」や「インクルージョン」というキーワードを掲げるようになってきましたが、その中身は冷静に見ておくことが大切です。もちろん、これらのキーワードを掲げ、それを体現している素晴らしい企業や地域もたくさんあります。だからこそ、そうではない「口だけダイバーシティ」・「口だけインクルージョン」を見極める目を持っておかないと、本当にそれを体現している人たちに対して、失礼だと思います。

ダイバーシティ・インクルージョンと言いながら、他人の生き方や意見、行動にイチイチ口出してくる環境があるとすれば、それは言行不一致です。

これは個人レベルでも同じ。「色んな人の意見があっていいのです」「様々な人の意見が尊重されるべきです」と言いながら、自分の価値観とは異なる話を聞いたり、それが何らか自分にとって脅威になると感じた瞬間、目の色を変えて反論してくる。「口だけダイバーシティ個人」です。

「多様性が大事」と本当に理解している人であれば、自分とは違う意見があっても、気持ちよく放置します。なるほど、そういう考え方もあるのね、で終了。
その後は、でもやっぱり自分はこう考える、で当初の自分の考えを貫くのか、あるいはここはそういう考えの方がごもっともだな、と考えて自分の行動を変える。
これをこっそり自分の中で完結させる。それだけの話です。

ネットやSNSの発展で、より多くの「個人」の意見に触れやすくなりました。
様々な人の個人の視点が知れて本当に面白い時代になったと感じる一方で、匿名で反論もできるようになったことで、多くの「カツ丼・天丼良し悪し議論」が生まれやすくもなっています。

もちろん、一緒にやる事業やプロジェクトに対して、より良いものを目指して議論するプロセスはとても大切です。
しかし、それ以外のケースで、そのテーマの良し悪しを議論してもしょうがない話については、「気持ちよく放置!自分は違う意見だけど尊重します!That's all!」くらいの清々しさが広まると、お互いに干渉しない、より過ごしやすい環境を作っていけると思っています。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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