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前島来輔「漢字御廃止之議」(慶応2年12月)本文について

 前回は序文について検討したので、今回は本文についての検討である。山本正秀の解説は、この建議の書誌的問題について多くを割いているが、すでに論文化されているので今回は取り上げず、あくまで建議内容の整理と紹介者自身の持論の披瀝を目的とする。

漢学教育批判

 従来の漢学中心の教育を批判し、西洋のような音素語の導入と、普通教育を整備することが、前島のこの建議における主張である。

 まず前島は一通りその主張を展開したのち、事例として「ウヰリアム」という宣教師の清国での滞在経験を紹介している。この人物は、のちに立教大学を開設したことで知られる。彼が上海に滞在していた当時の経験を引用するのだが、ここから前島は、

支那は人民多く土地廣き一帝国なるに、此萎靡不振の在様に沈淪し、其人民は野蠻未開の俗に落ち、西洋諸國の侮蔑する所となりたるは、其形象文字に寄せらるると、普通敎育の法を知らさるに坐するなり。(句読点補 130)

として、多くの子供が学校で儒教経典を意味もわからず素読し続ける様を引き、漢字による暗唱教育と普通教育の不備とを批判する。これは漢学教育批判でもあり、その手始めにあった素読批判でもある。前島にとってはたいそう不満であったらしく、一般にひろく教育機会が保証されていることと、その内容が実情に即したものであるかは全く別の問題であり、この対立は現在も尾を引いている。

 この点については、個人的には一つ疑義を呈しておく。というのも、イスラーム圏ではクルアーンをはじめとした重要書物の暗記が学者としての最低限備えるべき教養であったことを井筒俊彦らが回想しているし、西洋諸国という意味でも、たとえばユダヤのカラバは秘伝かつ口伝らしい。それが一概に否定されるべき教育方法なのか否かは、近代化以降および現在の視点から断罪すべきでないはずである。確かに見直すべき点が多々あるのもまた事実であろうが、ここでは、素読を始点とする教育体系を、同じ文字・文化圏にある国が蹂躙されたからとてすぐに廃止へと帰結すべきではなかった、とは言っておきたい。

あくまで「漢字」廃止であること

 前島は自らの漢字廃止論について、

日本に來りて見るに句法語格の整然たる國語の有るにも之を措き、簡易便捷なる假文字のあるにも之を専用せず、彼の繁雜多謬の漢字に據り、普通の敎育を爲すか如し。(130)

として、体系立った国語に信頼を寄せ、表記においても仮名文字の専用を主張する。また、

漢字を御廢止相成候として、漢語即ち彼國より輸入し來れる言辭をも併せて御廢止可相成儀には無御坐。(131)

と補足する。ここからは、あくまで漢字を用いる表記上の問題、とくにそれが利用可能になるまでの「能率」の悪さ、という根拠に基づいての漢字廃止を主張しており、漢語の使用までは廃止しないと慎重に断っている。

 考えうる批判への回答準備として、同音異義語の識別問題は、「①文典・②辞書・③句法語格接文の法則」の整備で解消し、とりわけ③は国文と西洋文との「参酌折中」とすることを主張している。

 また、「大将軍」という語を例に挙げ、それが大きな将軍なのか、大将の軍なのか、あるいは訓読みはどうしたらよいか、などという意味理解時の無用な混乱は問題なく避けることができると主張する。

 これは、漢字を廃止して「事理を解知する」ことを導入すれば、それによって得られる知識と、前後の文脈理解とでカバーできる問題ではあり、前島の主張は筋が通っているとみる。同音異義語の処理は、現代韓国語などの対照例があるので、統計データに基づいた議論が重要になってくるだろう。

 おなじように、言語学会は言語学+会なのか言語+学会なのかといった要素分け不可能な語彙をめぐる場がある。しかし、これも漢字を用いないからといって即理解不能になるような表現でもあるまい。このような意味重層的略語は、表現の幅という点では失われると惜しいものだが、日本語の普遍的運用とはまた別の問題である。一部の特権的文学者および研究者に日本語の規範を左右されるのは危険である。

言文一致の祖として

 その後、前島は「国文」の整備にも言及する。ここが言文一致の主張とされる具体的な部分である。

國文を定め、文典を制するに於ても、必ず古文に復し、「ハベル」「ケルカナ」を用る儀には無御坐。今日普通の「ツカマツル」「ゴザル」の言語を用ひ、之れに一定の法則を置くとの謂ひに御坐候。言語は時代に就て變轉するは中外皆然るかと奉存候。但口舌にすれは談話となり、筆書にすれは文章となり、口談筆記の兩般の趣を異にせさる様には仕度事に奉存候。(132)

 ここからは、あくまで現在用いられる口語に基づくことが主張されている。これは、平安頃の古文を凍結したままで訓読を続ける当時の教育への批判ともとれる。また、あくまで現在の口語に基づく文末表現の体系化という点での文体整備が主張され、使用語彙等の議論はなされていない。ちなみに、前島の想定する文典に「漢文」がなさそうなのも先駆的であるように思える。彼の「國文」は、あくまで和語だったと言える。

 また、言語は変わるもの、という認識も重要である。この時はまだ西洋から比較言語学は導入されていないはずだが、言語学的背景によらずとも、言語自体の本質への理解がある。これが前島独自の見解なのかは断言できないが、そうだと仮定するならば、その洞察力の鋭さを物語っている。一般に、保守的な主張を行うひとびとの想定する「伝統」は、みずからの幼少期あたりのものにすぎないが、言語の変化を正誤という観点から判断することは権威的であり、それを避けたければより慎重な判断をなさざるを得ない。前島がどこまで変化を想定して言文一致を完成させようとしたのか興味深いが、それが平安期の規範を追従することへの批判にすぎなかったかどうかはまだ確信が持てていない。

 余談だが、「内外」ではなく「中外」という語彙を用いているのも目を引く。前島も寄稿した、日本人によるはじめての新聞である「中外新聞」(1868.2.24-6.8、1869.3.7-1870.2)が、海外事情を含めて紹介する新聞であったことからも、国内外のことを指して用いているのだろうことはわかる。『史記』李斯伝に出典を持つ漢学由来の用語であろうが、大日本帝国憲法勅語には「我が帝国の光栄を中外に宣揚し」とあるので、明治期には共通理解があったのだろう。いまはみられないが、使われなくなった経緯はあきらかにされているのだろうか。

学問の独立

 前島はその後、普通教育論の展開にうつるが、目下、当時の教育が、対象を上下等に分け、下等には「宇宙間事物の道理」が解かれない状態を批判する。外国を知らねば愛国心もないという前島の認識下では、下等な者(一般人)に愛国心がないのはその現状のためだという。

 ここから、愛国心はあくまで外国の存在を前提とした相対的なものであることが理解されるが、そこには、上等なものにおいても中国のことばかり勉強し続ける儒学中心の教育への疑問があったことは確かである。

 また、教育としては、あくまで中国のみならず西洋の事情に通じることも必要だとしっかり断った上で、

普通一般の敎育に就ては尤も本邦の事物を先にし、他邦の事物も容れて自國の事物の如く自國の言語を以て敎授し(即ち學問の獨立)、少年輩の心腦をして愛我尊自の礎を固めしむること甚た肝要の事と奉存候。(134)

 とし、学問の独立を訴えている。ここでは自国の言語によって教授することが一国の独立にとっても重要なこととされている。

 これについて、前島は、“日本人は「支那魂」を先に注入したために「大和魂(愛国心)」に乏しかったが、「西洋魂」の増加によって再び同じような状況が生まれる”というある西洋人の主張を紹介する。前島はこの主張への評価には慎重なのだが、あくまで「自国→外国」という「学問の順序」が必須であるとの点には同意している。

 この順序こそが、前島の普通教育論の肝である。上等下等に分けながらも、この順序を確実に導入すること、まずは素読ではなく意味の理解に努めることが必要であると考えている。自国の言語で教育を行い、まずは自国のことから学ぶこと、これが前島の普通教育論である。

 ちなみに、「富強」のために、従来は専門技術として軽んじられていた物理や技術を学問に導入すべきだとも主張している(135)。1919年に日本の大学が世界で初めて工学科を設置したことも鑑みると、技術あるいは技術者への見方に特徴を見いだせる事例のひとつである。

追記:以上二か所の「學問の獨立」「愛國心」は、加筆である可能性が高い。

独立とはなにか

 ところで、「学問の独立」が自国の言語で教授することにあるなら、明治初期のお雇い外国人は段階・過程にすぎなかったといったところか。ここには言語と国家、さらには民族を容易に接続するナショナリズムの癖も見られるが、英語一強主義の今、学問が独立しているとはどういうことか、幕末明治の彼らが目指した独立というものをもう一度確認しておく価値はある。

 ちなみに、前島は普通教育によって「自尊獨立」の気象(気風)を盛んにすることを目指している(135)が、この自尊と独立とが併用されるのも初出に近い。福沢諭吉が『修身要領』で、

心身の独立を全うし、自から其身を尊重して、人たるの品位を辱しめざるもの、之を独立自尊の人と云ふ

と述べたのは1900年である。もちろん、自尊は慶応2(1866)年に出版された『西洋事情』初編においてすでに登場しているから、前島が初出とは言えない。ただ、共通の理念として共有されていた可能性は高く、ひとり福沢のみが考えていたわけではないことをおさえておきたい。

 前島の仮名文字専用論は、こうしてみると、自国の学問の独立のために、適切な順序で行われるべき、普通教育のための時間をどう配分するか、という能率の観点からの提起であることがわかる(cf.安田2016)。最後の独立云々の部分では、やや言語それ自体と文字表記とを混同する、あるいはそう誤解されうるに足る不親切な表現はあるが、自国の言語の独立という近代的課題を将軍に建議した功績はおおきかったのであろう。

 実態は漢語への配置転換にすぎず、仮名への翻訳はさらにもう一段階の手順を踏む必要があった上に、「誤解」の定着という弊害も少なくはなかったが、西洋の概念を理解するために、悪戦苦闘、自らの語彙として翻訳し続けた当時の彼らの努力というものは軽視できまい(積極的な誤解こそ翻訳だという主張や、柳父章の「カセット効果」理論などは、それを弊害とは捉えないだろうし、私もそのような見方に同意する)。

 前島の建議について一通り書き終えたら、そのような翻訳の中心的存在であった西周の言文一致論に迫りたい。

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