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【小説】イヤホン
ない。ない。どこにもない。
机の上もカバンの中も、どこを探しても、私のイヤホンがない。それからハッと気付いて、洗濯機を慌てて止めた。
そして昨日はいていたパンツのポケットからそいつを救い出した。電源を押す。光らない。充電する。ランプもつかない。少なくとも、今日は治らないことが、その瞬間わかった。
仕事の日。朝。会社までの30分。いつもルーティンのように聞く曲がある。でも、今日は聞けない。
予備のイヤホンを買っておけばよかったなと思いながら、諦めて家を出た。
いつもならこの曲を聞いてこの道を通るのに。なんで昨日ちゃんとポケットを確認しなかったんだろ。耳に寂しさを感じながら、私は会社に向かった。
結局、その日の仕事は、捗らなかった。
いつもより注意散漫で、先輩にも苦言を呈されたし、「早く帰りな、あとはやっとくから」と言われ、仕事も半端なまま会社を出た。夕方18時の夏の空は、まだ明るかった。
滅多に怒られないのになぁ。朝のルーティンにしてるプレイリスト、聞けなかったからかなぁ。
帰り道、そんな気持ちのまま、電車に揺られていた。最寄り駅につき、家へ向かう。
駅から家までの道。地面の模様を目で追いかけながら、歩いていた。
チリーン。
なんだろうと、音のした方向を見る。通りがかったマンションの4階のベランダには、風鈴が吊るされていた。
あそこに、風鈴なんてあったんだと、気づいた。それから、また少し歩くと今度はカサカサという音がする。
音の方向を見ると、小さな木が揺れている。
今度は遠くからセミの声が聞こえる。通りにある自販機からは、ウィーンとクーラーが張り切る音がする。
一軒家からは、ピアノの音がする。公園からは、子どもたちの声が聞こえる。
いつもの帰り道。いつもは見向きもしない周りの風景。そこには、音があった。ひとつ聞こえると、耳に意識が向き、違う音を拾い出す。
何の変哲もない音。でも、その音が心地良かった。なぜだろう、と思う。
音につられて、意識が外の世界に向くからなのか。その音が、自分の見る風景と重なるからなのか。
わからずに、思わず歩きながら考え込む。いつも帰っている時には、ありえないことだった。音楽を聴いて気分はあがるけれど、考え込むことはなかったのだ。
帰り道ずっと、あーでもない、こーでもないと考えた。でも答えは出なかった。帰った時には、どっと疲れた。いつもより仕事してないのに。
ただ、それもなんだか心地良かった。久々に何かを考えることに、没頭したからかもしれない。
翌日には次のイヤホンを買った。もう同じヘマはしないと、心に決めている。
そしてあれ以来、時折私は、イヤホンをつけずに帰ってくるようになった。そういう日は、ぼんやりと周囲の音に耳を傾ける。
すると、家の周りの日常の変化に気づくようになった。
たとえば、一軒家のピアノの音が上手くなったし、風鈴の音が、聞こえなくなった。夏に唸りを上げた自販機は、頑張らずにそっと息を潜めている。セミの鳴き声ももう懐かしい。
この楽しみは、間違えて洗濯したイヤホンが教えてくれたものだ。
イヤホンをつけるのもいい。でも、つけない日常も楽しい。
私は今度久々に会う友だちに、この楽しさを話そうと思った。
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