思考への囚われ

<2021年10月の会員さん向けの通信に書いた内容です>

10月です。今年も残り3ヶ月を切りました!なんて言って人の焦りを誘うのは好きではありません。2021年、という年の区切りは人間が勝手に線引きを行なったもので、天地の運行に切れ目などない。とはいうものの、時の過ぎ行く速さを感じると、何となくフワフワした感じがすることってありますよね。

さて今月は、最近よく感じている問題について、心身統一合氣道的見地から考えてみたいと思います。

●正しい(と思ってる)こと

ネット社会の広がりとともに、たくさんの意見や批判に止まらず、誹謗中傷までが集中的に巻き起こる「炎上」騒ぎが頻発するようになっています。ただネット上でたくさんのコメントが集まるだけのことですが、それを苦にして自殺などということまで起きており、軽視できない問題となっていますね。
これはネットの匿名性や、対面と異なり相手が人であるという実感が不足していることも要因と言えますが、根幹には「(自分が)正しい」「(相手が)間違い」の二元論的な考え方があるのではないでしょうか。

学校(受験)教育においては、正解のある問題に対して、「正しい」回答をすることが求められ、我々も含めて多くの世代は、その世界にどっぷり浸かって育ってきました。その習慣から、現代社会に起きている諸問題に対しても、「正解」があると思い込んではいないでしょうか?その考えは「正しい」と思いますか?

私は社会問題の多くには「正しい」と言い切れる回答がないように感じています。それはあまりに複雑に様々な事象が絡み合っているため、どの視点でどの時点で物を言うかによって、正しさの基準が変わってしまうからです。
極端な例ですが、戦地の真っ只中にいる兵士にとっては、敵兵を殺害することは「正義だ」と言うでしょう。これを「人の生命を奪ってはいけない」と倫理的に諭すのは正しいと思いますが、「やらねば自分が殺される」という反論に答えられません。

相手の置かれている状況、抱えている背景、関わる人たちなどによって、「正しさ」は微妙に変化するのが普通です。また、その人が触れている情報によって、「正しさ」の判断は大きく変わります。自分が触れている情報が、必ず「正しい」と言い切れる人はいないはずです。簡単に「自分が正しい」と言い切れる人は、想像力が欠如していたり、知識が不足していたりして、その複雑さや微妙さに氣づいていません。あるいは、知っていて無視しているかでしょう。そこに少しでも想像力が働いたり、相手を理解しようとする心があると、自分の正しさを振りかざして罵詈雑言をぶつけるようなことは出来ないはずです。
ちなみに、「論破!」というのが、私は好きではありません。

●科学や権威

「いや、でも科学的に正しいというエビデンスがあるじゃないか、論文が出ているじゃないか」、と科学的根拠があることをもって「正しい」と判断する人もいます。ひとつの物の見方ではあります。ただ、科学的根拠や学会で論文が出されていたら、それは「正しい」と言えるでしょうか?
わかりやすい例を出すと、数年前に製薬会社が学者を買収して、自社の薬(高血圧の薬でした)を売り込むための根拠となる論文を書かせていた事件がありました。ウソが論文となり、科学的根拠となって、実際に薬が売られて人々に投薬されていました。

「そんなのは一部で、権威ある人が認めていれば正しいはず」、という人もいるでしょう。しかし、同じく高血圧の話で言えば、昔の高血圧の基準は、上が180でした。年令によって異なる基準もありました。今は140ですが、テレビCMでは堂々と130超えたら高血圧です、と言っているトクホの商品があったりもします。人間の身体は、こんな短期間で大きく変わったりはしません。どんな裏事情があるかわかりませんが、発信する者の立場によって、こうした基準は都合よく変化していくものです。

盲腸というと、私の母が若い頃は「いらない臓器」とされ、虫垂炎になると簡単に手術で切除してしまっていました。しかしこれも数年前、実は盲腸は腸内細菌のバランスをとる大切な役割を持っていたことが判明しました。これを知らずに簡単に切り取られてしまった人は、うちの母も含めてどれほど多くいることでしょうか?この人達は、医学上の常識が変わったからと、国から謝罪されたり賠償されたりすることがあるのでしょうか?
「常識だから」「みんなやっているから」「テレビで学者が言っていたから」、そんな情報に従って行動して、あとから間違いだったことが分かっても、身体は元には戻りません。

つまり、科学的根拠があるから正しい、権威ある人(医者など)が言っているから正しい、とは言えないわけです。時代の変遷とともに常識は変わります。「天地は生成流転して瞬時もとどまらない」「諸行無常」ですね。「正しい」は、常に「条件付き」であることを知ることが大切だと思います。

●何を基準に判断するのか

何かの論拠を持って「正しい」と言い切り、相手を攻撃してしまうのは、アタマで考えたことで判断している、つまり「思考」にとらわれていることが要因になっているのではないでしょうか?
考えた結果、○○が正しい、✗✗は間違い、と判断すること。それは前述の通り真偽のほどは怪しいのですが、それを自戒することなく、相手に同じ基準で行動するように押しつけてしまう。この時点で、思考は停止してしまっています。大自然に停止しているものはないように、人間の心や思考も停止してしまうのは、本来のあるべき姿ではありません。思考が巡り続けていれば、相手の立場や言い分に耳を傾けたり、想像力を働かせたりすることが出来、価値の押しつけをすることは出来ないはずです。

では、思考せずにどうやって物事を判断したら良いのか?
これを我々日本人は昔から、「ハラ(腹、肚)で考える」と言ってきました。会員の皆さんには分かる言葉ですが、「臍下の一点に心を静めて考える」ということです。別な言い方をすれば、「天地と一体となって考える」とも言えます。

目に見えること、理解の及ぶことだけにとらわれて、一面的な思考になってしまうのは、意識がアタマに上がってしまっています。そういう時は、見えている範囲、感じ取れている範囲が狭いので、狭量な偏った考えに陥りやすくなります。向き合っている相手のことも、あまりよく感じられないので、その場に不適切な言動をしてしまっても、違和感を感じられなくなっています。
臍下の一点に心を静めてハラで考える時は、感じ取れる範囲が広く、相手のこともよく見えているので、間違った対応が起こりにくくなります。誤解や刺激への反射だけの反応をせずに済むだけでも、価値があるのではないでしょうか。

私は真に心が静まり、波静まった水面のような状態に至った時、本当の意味で何が正しいのかが分かるのだ、と思っています。「霊性心の発露」と言います。天地自然から我々人類が与えられた、普段は眠っている本当にすごい能力が、これにより開花するということです。心身統一合氣道会の会報誌にも登場した登山家の小西さんは、8千メートル級の無酸素登山で、何度もこうした直感的な感覚に生命を救われているそうです。アタマで考えて判断していれば、死んでいた場面がいくつもあることが語られていました。

物事をハラで考え、天地を基準に判断する。多くの人がそうすることで、良い世の中に向かっていくはずなのですが。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?