「抑圧」からの「解放」


〈2021年9月に会員の皆さんに向けて書いた通信です〉

朝晩がすっかり涼しくなりましたね。昨年に続いて短い夏でした。秋の長雨が8月から始まって、暑さが楽なのは嬉しいですが、夏好きとしてはちょっと寂しい、そんな9月の到来です。今月は藤平信一会長の本が出ます。それに付随していろいろとイベントの構想もあるそうです。そして、女性師範の沢井柚希先生の「氣圧法オンライン講座」も開催中。更に10月末には、秋のインターナショナルオンラインイベントが開催されます。心身統一合氣道会は、道の普及拡大にギアを入れ換えました。これからも色々と面白い仕掛けが出てきます。みなさんの稽古仲間もどんどん増えていきますので、お楽しみに!

さて今月は、ある会員さんとのお話がきっかけで考えたことを、皆さんにシェアしたいと思います。お話ししたのはこういうことです。心身統一合氣道では、人間本来の生命力や能力を最大限に発揮することを一つの目的としています。本来の姿、自然な姿や状態に立ち戻ることを推奨し、稽古しているとも言えるでしょう。しかしその一方で、「姿勢を正しく」とか「履き物を揃える」とか「心を静める」とか、様々な命令を自らに(あるいはこども達に)課しているような印象もあります。一方で「リラックスしよう」と言いながら、「へんじ・あいさつ・くつならべ」なんていう押しつけをしているのは、矛盾していないのか?、というのが大まかな内容です。みなさんはどう思われますか?

私自身、あまり持たなかった視点での疑問でしたので、改めて考える良いきっかけとなりました。
私からの回答としては、”それが本当は、本心では望んでいること、につながっていいる”、というものです。分かりにくいので補足していきます。

●礼儀、しつけ

たとえばこどもクラスで読み上げている「日常生活十の誓い」には、「正しい姿勢をします」「元氣よくあいさつをします」「はきものをそろえます」などなど、大人が読んでも「あ〜、自分が出来ていないよな」なんて思ってしまうことが満載です。我々親としては、こども達にぜひやって欲しいことであると同時に、出来ていない自分への戒めにも聞こえてしまったりします。
習い事として武道を選択する親御さんの多くは、こういった「礼儀、しつけ」に類するようなことを、しっかり身につけて欲しい、と考える方が多いのではないでしょうか。我が教室でも、お子さん達には基本的に毎回これを読み上げしてもらっています。その中の項目を拾ってお話ししたり、行動を促したりもしています。

ところで、お子さんのいる方々、こうしたことを「やりなさい!」と言って、どのくらい定着していますか?割と小さいお子さんに関しては、素直に言うことを聞いて、やってくれている子が多いかもしれません。しかし、我が家のように生意気盛りな中学生ともなると、押しつけするのはなかなか難しいのではないでしょうか。現にうちはそういう場面が多々あります。

ですから、これは私が「出来ている」と言っているわけではなく、「こうありたい」と思っていることなのですが。。。
確かに、「抑圧」的に礼儀作法や言動をコントロールしようとするのは、心身統一合氣道が目指す理念とは相容れないことです。かと言って、礼儀やしつけに通じることを教えることを放棄しているわけではありません。私が理想として掲げたいのは、正しい姿勢やあいさつ・くつならべなど、実際に行った時に、「こんなに氣持ち良いものなのか」ということを実感してもらうことによって、本当は本心からの欲求としてやりたいものなのだ、ということに氣づいてもらいたい、ということです。(伝わってますか?)

ご近所の方に会って、元氣にあいさつをして、相手の方も笑顔で氣持ちよくあいさつを返してくれた。こういう「氣の交流」は、義務的に行うことではなく、やれば氣持ち良いことが分かっていれば、当たり前に出来るようになることです。
「履き物をそろえなさい!」、そう言われて渋々行っても習慣にはなりにくいですが、きれいに靴が並んだ玄関をみて、「ああキレイだね、並べてくれてありがとう」、と感謝されたりすれば、整っていることの氣持ち良さに氣づいて、その後もくつならべをしたくなります。
これらのことは、実際に行って、実感しないと、理屈だけでは良さが分かりません。また、周りの人たちがこれを行うこともなく、やってくれたことに氣づくこともなかったら、どうでしょう? やはり、やらなくても良いことだ、他の人はやっていないし、ということになり、「喜び」に氣づく機会を失ってしまいます。

本人が率先して行い、周りの人もそれに呼応して、氣の交流が起こる。それによって、こういう「礼儀」と言われていることが、実は「喜び」につながっているのだということに氣づくことが出来、それによって習慣化されていくものではないでしょうか。
こうした、心の奥底に眠っている真の喜びに氣づくために、これを覆い隠している障害物から「解放」していくこと、それが次々と起こる教室にしていくのが、私の理想です。

●身体の使い方

心身統一合氣道をはじめて体験する時は、必ず「正しい姿勢」からお伝えしております。いろいろな形で「姿勢」を学ぶ機会はあり、他にも「全身の力を完全に抜く」なんていう言葉もあり、徹底的に力を抜くことを身につけていくべく、稽古しております。
最初のうちは、この「正しい姿勢」そのものが、普段の自身の姿勢とはギャップがありますので、自分に対して命令をして、多少無理をして「正しい姿勢」をとっている、という氣持ちになるかもしれません。これは”あるある”だと思います。そういう間は、「リラックスしなさい」なんて言われると、反発したくなってしまうかもしれませんね。

我々の役割は、この「正しい姿勢」は、本当は無理のない「楽な」姿勢なのだ、ということを知っていただき、体感して理解していただくことです。
つまり、「抑圧」的に自分に強いるもののように思えるが、本当は、本来あるべき姿を取り戻すべく、余計な力みや悪い習慣から「解放」しているのだ、ということを、知っていただくことです。つまり、本心の奥底にある「真の欲求」として身体が望んでいる「正しい姿勢」を追求しているわけです。

力を抜くことや、身体の総ての部分の重みをその最下部におくこと、そして臍下の一点に心の静まる姿勢を保持すること、などなど、心身統一合氣道でお伝えしている身体の使い方を、「ひとつひとつ新たに身につける」と考えると、とても果てしなく遠い道のりに思えてくるのではないでしょうか。しかし、これらの根本には、我々人間の身体が本心の奥底から望んでいる、「本来あるべき姿」があります。これを取り戻すために、様々な悪癖から身体を「解放」していくこと、それが心身統一合氣道で身につけることの根幹である、というのが私の考えです。

●人間本来の生命力

昔ながらの武道のイメージでは、「抑圧」的に様々なことを自分に命令して、負荷をかけて変えていくことを目的として稽古する、と思われていることが多いのではないでしょうか。私達の世代は、こどもの頃からそうした教育を受け、ストレスや負荷に耐えることが出来る大人になるために、色々と無理をして「頑張る」ことを繰り返してきたような印象があります。特に「体育会系」と言われるところでは、その傾向が強く、運動部でなくても、私の働いていた金融機関にも、「氣合いで乗り切れ!」のようなノルマ至上主義の押しつけ思想は浸透していました。こうした「精神論」「根性論」のすべてが間違いで不要なもの、とは言いませんが、少なくとも中心に置いて考えるべきではないこと、と私は思っています。

元々我々人間が、天地自然より与えられたものの中に、すべてがうまくいくために必要なことが、ちゃんと入っている。それに氣づくことが出来れば、天地自然に与えられた素晴らしい能力を最大限に発揮することが出来る。そういうことが私の考えの根幹にはあります。
それを実現するための方法に満ちているのが、この心身統一合氣道である、と私は思っています。ですから、その人間本来のすべての能力を最大限に発揮できるように、これを妨げる不要な習慣、マイナスな観念を排除していくことが、日々の修行なのだと考えています。

この考え方は、私達の心身の健康に関しても同じことです。天地自然に与えられた生物としての人間の能力は、とてつもない不思議に満ちています。たとえば道を歩く動作一つとっても、機械で再現することは、未だに困難なんです。風邪をひけば、せきやくしゃみ、鼻水や下痢で異物を体外に排出したり、発熱して免疫系の発動を活発にしたり、食欲を止めて消化のエネルギー消費を抑制したり、ちゃんと完全に回復するまでのすべてのメカニズムが、身体の機能として取り揃えられています。こうした、身体の自己修正作業を抑制することは、人間本来の能力の「解放」になっているでしょうか?
我々は、すべてを思い通りにコントロール出来るものと驕り自惚れて、人間本来の機能の「抑圧」ばかりをすることに慣れてしまい、心身の本来の欲求に耳を傾けることが出来なくなっているのではないでしょうか?

すべてのものがありのままに映される、波静まった水面のような心の状態を取り戻し、保持することを稽古して、我々が本心の奥底から欲求している「真の喜び」に氣づき、天地の大道を大手を振って歩いていけるよう、私自身精進しつつ、皆さんにもお伝えしていくことが、私の今感じている本心の欲求です。

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