続はぐれ鳥

     日記より26-15「続はぐれ鳥」         H夕闇
                十月二十一日(金曜日)晴れ
 一週間の帰省を終えて、けさ早く娘が去った。
 妻は大サービスで疲れたのか。それとも、この所(ところ)ひどく寒暖差が激しいのが原因か。図書館へ貸し出し予約を入れた侭(まま)になっている本を受け取って来るよう頼まれて、僕が代わりに出掛(でか)けた。
 その序(つい)でにN公園へ足を伸ばした。その一画の運動器具を使った後ベンチで本を開くのは恒例だが、他にも一つ目的が有った。白鳥の一件を確かめたかったのである。
 数年来この公園の裏のN川で一羽の白鳥が夏を越している。冬の渡り鳥が、である。それが五羽になった、との噂(うわさ)を聞いた。聞いたのは、末娘が帰郷して来る直前だったから、もう十日か半月も前のことである。早朝の散歩をサボり勝(が)ちな妻から聞いたのだったか、或(ある)いは毎朝(雨が降っても傘(かさ)を差して出掛ける)まじめなAK夫人からの又聞きだったか、他の散歩者の噂話しだったかは、もう忘れた。それを確かめる為(ため)その時も僕は早速(さっそく)行って見たのだったが、白鳥は全く見られなかった。
 N川の対岸は草木が生い茂っていて、そこへ這(は)い込(こ)むと、姿が見えない。誰かが餌(えさ)を与え始めてから、近頃は川面(かわも)へ出て来るようになったが、もう何年か前から対岸の雑木林に隠れて居たのかも知(し)れない。元々お目に掛かれないのが(特に昼間は)普通だった。
 間も無く「五羽がゼロになった。」という話しも聞いた。軈(やが)て「きょうは三羽だった。」と言う人が居たそうだ。そして、最新情報では「又もや一人きりに戻ってしまった。」とも。
 結局の所(ところ)、はぐれ鳥が仲間の群れに合流できたというのは、根拠の無い流言飛語に過ぎなかったのだろうか。孤独な野鳥に人々が同情し、「冬が近付いて、白鳥たちがシベリヤから舞い戻り、一緒(いっしょ)に暮らせるようになりました。めでたし、めでたし。」という希望的な夢想が噂話しを産んだのかも知(し)れない。
 実際、冬鳥が渡って来るにしては、やや早過ぎる。この二キロばかり下流に白鳥の(他にも雁(がん)や鴨(かも)なども)越冬する水辺が有るが、僕の知る限り、飛来するのは例年もっと寒さが募(つの)ってからである。伊豆沼や猪苗代湖などへは早くも渡って来た、とのニュースを聞くが、この辺は毎年(なぜか)遅いのである。

 ともかく、それで公園の外れのN河畔まで見に行ったのだが、果たして居た。但し、(期待に反して、)一羽だけだった。水鏡にクッキリと白い孤影を映して、流れに浮かんでいる。
 そして、先月十六日(日記を確かめた所、)ダランと垂れ下がっていた右の翼が、キチンと背中へ折り畳まれている。これには驚いた。と言うのも、けがした右翼の為に飛べず、それで北国へ渡って行けなくなったものと、僕は類推していたのだから。もしも飛べなくて旅立てなかったのではないとすると、あの渡り鳥は一体(いったい)どんな訳で当地に留まったのだろう。群れを成す動物に取(と)って、はぐれて孤立するのは、持って産まれた本能に反することで、余程の不安感が伴(ともな)う筈(はず)だ。好き好んで離脱したとは、考え難い。
 もしや負傷したのは反対側の翼だったろうか、と訝(いぶか)しんで、水鳥が向きを変えて泳ぐまで、僕は双眼鏡に喰(く)い入った。そして、両翼とも正常に畳まれているのを確認した。剰(あまっさ)え、浅瀬に立って、両の翼を大きく拡げ、二度三度と羽ばたいて見せた。その動きは力強く、異常が全く感じられなかった。けがが原因ではないとすると、なぜ群れと共に北帰行(ほっきこう)をしないのだろう。
 もしかしたら、あれは以前から居た白鳥ではないのだろうか。前の鳥は翼が治って、どこかへ(例えば仲間の待つ二キロ下流へ)飛んで行ったのだろうか。そして、今ここに居るのは別の個体で、それが新たに単独で住み付いたのであろうか。
 とすると、以前の(けがした)白鳥は、どうして治ったのだろう。飛べず、折り畳むことさえ出来ない程の大けがだから、骨が折れたのではないか。それが自然に治癒するものだろうか。
 妻が想像するには、獣医が捕まえて治療したのではないかと。一時的に居なくなったのが入院期間で、骨接ぎなどの処置を受けて元の住み家へ戻されたのだろうと。

 僕は渡り鳥の生態に就(つ)いて無知なのが残念だ。動物の生き様には、一般に興味の深い事柄が多い。
 例えば、遠くベーリング海で成長した鮭(さけ)が、数年前に自(みずか)らの孵(かえ)った日本の川へ、秋になると帰って来る。何故そうしたくなるのか。又どんなメカニズムで方向を知り、古里の川を探し出すのか。(水質や匂(にお)いで察知する、との説を小耳に挟(はさ)んだことが有るが。)
 感動的な位(くらい)に懸命な姿で巣へ餌(えさ)を運ぶ親鳥が、雛(ひな)が飛べる時期になると、はたと与えなくなる。それが、子が巣から出て独力で捕食するのを促(うなが)す結果となる。従って、飛ぶことを促すことにもなる。そんな知恵を親は持っていて、そうするのだろうか。恐らくは、そんな知的な観念は自覚しないだろう。とすれば、、、
 以前「キタキツネ物語」という映画を見た。仔(こ)狐(ぎつね)が獲物の採り方を覚えると、親は子に噛(か)み付いて巣穴から追い出すそうだ。巣立ちの必然性など子には理解できず、今まで優しかった母の豹変を悲しむように、何度も振り返りつつ去って行く。親の方だって、自身の行動の意味など分からないのではないか。
 僕の経験から類推してみるに、思春期には他者の存在が無闇(むやみ)に(訳も無く)煩(わずら)わしく感じられる時期が有った。傍(かたわ)らに(同一の空間の中に)居られると、その人の存在自体が大層ひどく癇(かん)に障(さわ)るような印象。それ程に、当方の自尊心が暴発する衝動。親狐は多分そんな本能がムラムラ催(もよお)すのではあるまいか。これまで命に代えても守り育てた我が子なのに、母性との矛盾に葛藤(かっとう)し乍(なが)らも、自己抑制の利かない不可解な欲求が、己(おのれ)を苛(さいな)んで放さぬイライラ。愛憎が体内で鬩(せめ)ぎ合う苛立(いらだ)ち。蛇(へび)が自分を尾から喰い尽くすように、自己その物にも向けられる激しい憤(いきどお)り。そんな内面の修羅場(しゅらば)が思い当たる。

 言葉を持つ人間ならば、自己の心理状況を云(い)い表して相手に理解を求める手段も有ろう。それを持たぬ親子は、そこで巣立ち、永遠に別れる。そして生涯二度と睦(むつ)み合うことが無い。もし出会うことが有っても、互いに縄張り(テリトリー)を荒らす敵と見做(みな)して、血みどろの戦いを始める。親と子として相手を気付くことも無いのかも知れない。
 言語を持たぬ者の悲しい宿命である。僕らは言葉に恵まれた幸運を大いに生かそう。己の妄想に囚(とら)われて隣国へ侵攻する愚を侵すまい。有りもしない宗教に惑わされて家族と相(あい)食(は)む不幸も見たくない。もしも白鳥がウクライナや日本の社会を遥か上空から鳥瞰(ちょうかん)したら、人間の愚かしさを(言語に恵まれ乍らも能力を駆使できぬ霊長類の愚鈍を)どう見るだろうか。                 (日記より)

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