僕が電動車椅子サッカーに出会う少し前の話③ 完結編
前回からのつづき
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2019年3月末〜4月、そして5月
ばあちゃんが住んでたマンションのその後
ばあちゃんが亡くなり、住んでいたマンションの片付けが始まった。
ばあちゃんは昔、ブティックを経営してたし、
油絵を描いたりしていたので、
家の中に物が多かった。
大半は服や、画材、自身が描いた絵等。
服は人にあげたりしたが、絵は捨てれない。
マンションの部屋自体、ばあちゃんの持ち家(分譲マンションを買った)だったので、
売るかどうかオトンは悩んでるみたいだった。
が、オカンはそれに反対していた。
ばあちゃんの住んでいたマンションは
駅の真ん前で好立地なので、
売るのはもったいないと言っていた。
元々、僕が一人暮らしをしたいと思ってた事、部屋を探していた事などを知っていたオカンは、
僕がそのマンションに住む事を推してくれた。
(結果、2019年6月からそのマンションに住む事になる。)
夜のアメ村へ
一年ちょっと続けていた不毛な生活から
抜け出す事を決めた僕はとりあえず、友達や先輩、お世話になった人達に会いに、
また少しづつ夜のアメ村に顔を出すようになった。
主にキングストンラウンジ(以下、キンスト)や、ガーデンバー。
当時の写真が一枚残っていた。
久しぶりに爆音で聴くレゲエ、皆と飲むお酒。
純粋に楽しかった。
キンストで、とある先輩に声をかけられる。
「キンストでNo MCの新しいダンス(イベント)やろ思てるから、祐太また手伝ってやー。」
と言われた。
アメ村のクラブに顔は出すようになったが、
セレクター(DJ)として戻ろうとは全く考えて無かったので、
その時は「考えときます。」とだけ伝えて話は終わった。
それから数日間はどうするか考えていたが、
返答はしていなかった。
一年ちょっとセレクターを全くやっていなかったし、これからやっていく自信も無かったからだ。
ある日、LINEの通知音が鳴った。
見てみると、その先輩からのLINEだった。
「フライヤーデータできたから。」との文章と、
画像がセットで送られてきた。
僕の名前が載っていた。
(まだ手伝うとも言うてないのに!)
やられた。と思ったが、
流れに身を任せてみるのも良いか、とも思った。
かくして僕は、
なんやかんや付き合いの長い優しい先輩に、
半ば強引にセレクターに逆戻りさせられてしまった。
感謝してます。
ここからまた少しセレクターを続ける事になる。
2019年6月
キッカケ
2019年6月。僕は大きな出会いをする事になる。
ばあちゃんの部屋も片付き、
人生3度目となる一人暮らしをスタートさせる。
実家から近い事もあり、引越し業者には頼まず、地元の友達やオカン、ヘルパーさんに手伝ってもらって少しずつ荷物は運んだ。
住み始めの数日は、
本当に部屋にはベッドしかなかったが、
久しぶりの一人暮らしに高揚し
全然苦にはならなかった。
ここからまた新しい何かが始まるんやと思っていたし、実際始まる事になる。
新生活とひょんな事から音楽活動を再開し、充実していたが、
テレビもないWi-Fiもない、この時はまだ仕事もしていなかったので、日中は暇だった。
iPhoneでゲームしたり、ネットサーフィンをして夜を待つ生活だった。
その日もいつもと変わらず、SNSやネットでニュースなんかを読んでいると、
電動車椅子サッカーという文字が目に入った。
電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画、
『蹴る』の上映会が大阪で開催されるという記事だったが、僕がその記事を見つけた頃には上映期間は終わっていた。
※電動車椅子サッカードキュメンタリー映画
『蹴る』
気になった方はこちら、チェックしてみて下さい
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『蹴る』、『電動車椅子サッカー』
電動車椅子サッカーと聞いて皆さんはどんなものを想像するだろうか。
僕は最初、電動車椅子サッカーという競技があるんだろうなとは思っていたが、
どうせ障がい者がリハビリ程度に電動車椅子に乗ってボールを転がしてるだけのものを想像していたし、その程度のものならやりたくなかった。
(自分も障がい者のくせに。偉そうに。)
ただ、映画『蹴る』の記事を読み進めると、
僕が想像してたものとはかけ離れた世界がそこにはあった。
電動車椅子サッカー専用の、10km/hのスピードが出せる競技用の電動車椅子、日本各地にクラブチームがあり、全国大会やワールドカップも開催されていて、
映画『蹴る』に出演している選手達は、
筋ジスや、SMA、脳性麻痺などの病気で電動車椅子に乗っている日本代表選手や、日本代表を目指している人達だった。
衝撃的だった。
電動車椅子サッカーをやっている選手達が輝いて見えた。
自分はついこの前まで、音楽も仕事も手放し、
ド底辺の生活を送っていたし、
何よりも僕は、
自分は走れないから、
自分は筋ジスだから、
自分は障がい者だから、
自分は電動車椅子だからと、
理由をつけてスポーツを諦めていた。
自分が知ろうとすれば、
いつでも知れるキッカケはあったと思う。
少し悔しくも感じた。
32年間、僕が培ってきた常識は崩れ去った。
32年間当たり前だと思ってた事が覆る瞬間って中々ないと思う。
胸が熱くなったと同時に、僕は小学生の頃を思い出していた。
回顧
1993年のJリーグが開幕した次の年、
1994年、僕は小学1年生になった。
93年、初代JリーグMVPは三浦知良選手、キングカズで、当時の男子小学生はみんなカズダンスを真似して踊っていたように思う。
僕もその内の一人だった。
当時はJリーグが発足したばかりだったので、世間的にはサッカーが盛り上がっていたのだと思うが、僕は野球の方が好きだった。
自分の通っていた小学校の校庭では、よくファイターズという少年野球チームが練習していて、
誰にも言い出せなかったが、そのチームに入りたかった。
言い出せなかったのは入れないと分かっていたから。自分は周りの子達とは違うとこの頃から理解していた。
オトンとオカンは僕ら兄弟を支援学校に通わせなかった。
周りとは違う劣等感や大人達からの特別扱いに嫌気がさしたりもしたが、オトンとオカンの判断は正しかったと今では思う。
スポーツは好きだったので後にパワプロやウイイレにハマる。
僕が強くサッカー、日本代表に憧れを抱くのは1998年。
フランスW杯。
小学5年生、11歳の時。
日本は初めてのワールドカップ、初戦はアルゼンチン。
バティストゥータが日本に世界の洗礼を浴びせた。
日本は結局初戦、2戦目も落とし、早々にグループリーグ敗退。3戦目も敗戦し、
3戦全敗、世界との壁を痛感する結果だった。
印象的だったのは、
日本代表選手達が帰国した際、空港で城彰二選手に向かって口の開いたペットボトルが投げられ、スーツに水がかかっていた。
ニュース映像でそれを観た僕は、
それでも日本を代表してフランスで戦ってきた選手達が誇らしくカッコ良くて憧れたが、
この頃になると自分がどういう病気で、どうなっていくかも理解していた僕は、すぐに諦めた。
憧れてもどうせ日本代表にはなれないと思っていたから。
よく言えば悟っていた、悪く言えば擦れていたし、可愛げのないクソガキだった。
小学生の自分
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闇コナンである。
この頃の自分にサッカーを諦めなくても良いし、日本代表の可能性も消えてないぞ、
と抱きしめてあげたい。
大阪ローリングタートル
大阪のチーム
映画『蹴る』の記事を読み、
電動車椅子サッカーという競技を知った僕は、
障害があろうがサッカーは出来る事、
日本代表選手を目指せるかもしれないという事に
興奮しまくっていたし、燃えていた。
居ても立っても居られなくなり、
すぐに大阪のチームをネットで探した。
大阪ローリングタートルというチームがあるという事を知り、ホームページを探したが見つからない。
どこへ連絡すれば良いかもわからず、ダメ元でTwitterで検索してみた。
当時の大阪ローリングタートルの監督のTwitterがヒットした。
フォローし、直ぐにメッセージを送った。
当時のDM
この3日後の6月30日、
僕は初めて電動車椅子サッカーを体感する事になる。
6月30日
雨が降っていた。
僕の人生の中の割と大きなターニングポイント、
今現在、この文章を書いている中村祐太のスタートライン。
初めて踏み入れる
長居障がい者スポーツセンター、
日本の電動車椅子サッカー発祥の地。
そして日本で最初の電動車椅子サッカーチーム、
大阪ローリングタートル
(実は体験しに行く前から、このチームに入る気満々で調べて行ってたし、2on1と3パーソンというルールは勉強済みだった。)
そして、
この電動車椅子サッカーにおいては
自分が周りと比べて劣等感を感じる事もない、特別じゃない、フェアに競い合える。
選手は皆、障がい者で、
皆、電動車椅子。
全てにワクワクしていた。
体育館に入ると、競技用の電動車椅子に乗った選手達が円陣を組んで何やら話していた。
皆の視線がこちらに向く。
「連絡していた中村祐太です。」
この後、2019年8月から正式に大阪ローリングタートルへ入団。
生まれて初めての背番号。7番。
僕が電動車椅子サッカーに出会う少し前の話 完
これが、僕の電動車椅子サッカーを始めるまでの前日譚です。
全て実話で、誰にも話した事ない内容も入っているので、
すこし小っ恥ずかしい感じもしてますが、
どうだったでしょうか。
少しでも楽しんでくれたり、
電動車椅子サッカー(パワーチェアフットボール)や、大阪ローリングタートル、
中村祐太という選手に興味を持っていただけたら幸いです。
※大阪ローリングタートルのHPです。
見てね。
他にも、幼少期から学生時代の話、
レゲエに出会って音楽をしていた20代の話や、
大阪ローリングタートルに入団した当初の話など、
色々話の種はあるので、またどっかのタイミングで自分語り書くかもしれません。
(しばらくはやりませんが。)
それではまたの機会に。
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