「善意という死者、悪意という生者」003(途中)

人々は焼けた空からの光を浴びて、温かな海の中を泳いでいる。
幅広の道の左右には、緑色の蔦と、夕焼けのオレンジで染まったガラスの壁面のビルが建っている。
どれもこれも中を見せないガラス張りで、多少の差異があるとすれば、各階から垂らされた蔦の伸び具合だけだった。
歩道を歩く人々は、互いに挨拶を交わしているけれど、僕にはそれが口の動きという視覚情報と、そして電覚で知ることができる「お疲れ様です」という「形」でしか理解できない。
なぜなら僕は真っ赤なヘッドフォンをしていて、聴覚が塞がれているからだ。
耳には瞼がないなんていうけれど、僕にとって不愉快な「言葉」をただのノイズに変換してくれてた。
ちょうど、瞼を閉じても、そこには暗闇はなく、代わりに血の赤さだけがあるように。
ヘッドフォンからは、どんな音楽も流れてこない。
ただ、耳に当て、リズムの代わりに血流の轟々という音を聞く。
あえてノイズキャンセリングはつけていない。
僕にとって偽物でしかない「言葉」がただのノイズにヘッドフォンという瞼を通すことで、ただのノイズに変換されているのを感じるのは、まるでその嘘を暴くようで、大変心地好いことだった。
加えてもう一つ。
ヘッドフォンをかけていると周りから話しかけられない。
この点は本当に重要で、僕は周囲への反応というやつに本当に無頓着になってしまっており、下手な反応をするよりはそうしてしまった方が良いという判断だった。
駅に向かう人々の流れに逆らって歩く。
地面は、廃材を加工してつくらてたブロックが敷き詰められており、一つは木材、一つはプラスチック、一つはコンクリートというように一歩踏みしめるたびに異なった感触が帰ってきた。
街の中心のμタワーからは反対へ、外縁部の方角へ、夕日に背を向け、伸びる影法師を追うように放射道路を歩く。
依頼人との待ち合わせ場所はオフィス街から徒歩で5分ほどの小さな歓楽街だった。
仕事帰りのサラリーマンが溢れている中、表通りに面したバーへ入る。
外の喧騒とは違い、そこはけたたましいロックが’かかったバーだった。
僕はコルトレーンやソニーがいるような場所が好みだけれど、でもそれは仕事では使えなかった。
ヘッドフォンを外し、代わりにインカムをつける。
腰に下げてあるのは、一世紀も前の携帯電話だ。
短距離ならば、現代の規格とも通話が可能だからだ。
チューンをすると、耳障りなキュッキュという音の後に、男の声が聞こえる。
「依頼をしたい。」
周りの雑音でかなり聞き取りづらいが、しっかりとそう聞こえた。
携帯に返答を入力し、完全な合成音声で返答する。
「キャッシュ。3本だ。」
短く。金額のみを伝える。
周囲を電覚で感じると、入口近くの男から、不穏な、不安な電子の流れを感じた。
電覚の素晴らしいところの一つは、そちらを物理的に見なくとも知覚できることだ。
目線を向けることはしない。
ここがもし外ならば、そこら中にカメラがあるからだが、僕の場合は、男の周囲の「目」を盗むことで事足りるからだった。
バーに来るような年齢で、脳みその中に電脳分子群の森をもっていない人間はいなかった。
ひどく頬のこけた男で死神を思わせる姿だった。
目の奥で、どんよりとした泥のような闇が見えた。
ほんの少し間の後に、男は答える。
「問題ない。依頼内容と、報酬はどうする。ここでいうか?」
「このバーの店主に全て渡せ。」

つづく

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