見出し画像

【小学生時代】いじめられっ子だったが裕福な家庭で勉強大好き

*期間限定無料の記事です。後日有料になります*

おはようございます。
人生で一番贅沢していたのは小学生の頃だった西岡です。あのまま大人になっていたらと思うと怖いです。

今日も自分の話です。なんか波乱万丈自慢とか不幸自慢とかそういう類のものと、とらわれてしまうような記事になってしまいますし、わざわざ言うことでもという声もあるかもしれませんが、そこを避けては通れないくらい自分の人生においては大きいことなので、そこも発信していきたいと思います。

————————————————
5歳の時に親は離婚、母は女手一つで
僕と妹を十分に養うだけの稼ぎを。
————————————————

うちの家族は5歳の時から、母、僕、妹の3人家族。そして小学生の頃は3年生まで世田谷区、4年生からは渋谷区という超がつくほど都会っ子でした。それも全て母のおかげです。

当時は金銭面で子供の立場であるものの心配するような空気感はなく、むしろ今の自分から見ても羨ましいようなものばかり食べてたし、すごい家にも住んでた。そんな小学生時代でしたが、、、 いわゆるワケありのボンボンですw

————————————————
生粋のいじめられっ子だった
————————————————

世田谷でも渋谷でも、いじめられてた。生粋というには十分だと思う(笑)
だからきっと自分や家族にそういう隙があったんだろうと思う。思い当たるフシもある。でもそれは子供である僕にはどうすることもできないことだったり、うちの家族が生活できていることの副作用の一つだったりもして、今考えると当時の僕は気の毒。もちろん当時の僕にはそんな冷静な目は持っていないし、原因もわかっていなかった。単純に嫌いな人が数名、毎日のようにちょっかいをかけてきて、それが本当に嫌で嫌で我慢の日々だった。仮病を使って学校を休もうともしていた。

母がいじめの存在を知った
いじめが原因だと言えればよかったかもしれないけど、それは難しかった。心配をかけてしまう、かっこ悪い、、、いろんな理由があってできなかった。でも同級生の母経由で、うちの母の耳にも入り、問いただされた。
もちろんそこまでいけば隠すことはない。事実を告げて学校に行きたくないと言った。

母は学校の先生と話をした。ところがここから状況は悪い方向へ進んでいく。
在ろう事か、先生はホームルームでどストレートにいじめっ子に「西岡のことをいじめるのをやめなさい」と言ったらしい。(僕は欠席)
学校の先生から根拠のない「もう大丈夫です」という報告を受けた母は、学校に行くようにと言ってきた。渋々学校へ。。。

表面上は良い子、裏では、、、
学校へ行った時、びっくりしたのはみんなが笑顔で迎えてたこと。気持ち悪いくらいに。あっ解放されたんだなと思った。謝られたりもした。でも、影で「チクりやがって」とか「俺らしかいなかったら殴ってたわ」とかいろいろ言われた。なんかそのねちっこい感じが前よりも嫌で、辛かった。俺が何をした?なんで俺だけこんな目に?なんども思った。

母の起死回生の一手
ある日突然「少林寺拳法を習いなさい」といわれ、嫌々行くことに。強くなって戦えってことなのかと思いきや、母の思惑は別のところにあった。なんとその少林寺拳法の教室にいじめっ子の主犯が通っていた。アメリカ人なら小声で「オーマイガー」と呟いてただろう。本当に何てこったって感じで戸惑いまくりました。
向こうも驚いてたw でもこの作戦が見事に功を奏し、仲良くなったのだ。自分には真似できない一手だったと思う。

————————————————
勉強しなさいと言われたことはなく、
むしろ勉強大好きで迷惑をかけた
————————————————

母は放任主義。勉強に関して強制したり、遊びに制限をかけることも基本的になかった。
なのに!なぜか勉強が大好きだった。知的好奇心を刺激する作業が好きで、その代表例がテスト。テストが大好きだった。今思うと変わってる笑 成績はというと、小学5年までは授業についていくふつうの子だった。でも当時家にきてくれていた家政婦さんが塾のテスト受けてみたら?という一言で、試験を受けて、受験したいと言い出した。試験を受けた時、「今のあなたはこれです」と一枚のペラの紙でできた成績表をいただいた。そこには自分の得意なこと苦手なこと、全ての科目の現在地が記されていた。。。

————————————————
自分が思っていた結果と違ってた
————————————————

算数は大好きだったし、他の科目も苦手意識はなかった。学校の試験は生ぬるいから苦手意識を持つことがないまま来ていたからだと思う。
算数は思ったよりも点が取れていないし、意外と理科が良かったり、国語と社会は壊滅的だったり、、、でも不思議と悔しさよりもワクワクした。この塾に入ったらこの成績が変わっていくのかな?みたいな期待感に包まれた。

母は正直困ってた。勉強をさせたがってるようないわゆる教育ママではなかったからだ。受験をするにはももうすでに小学校6年の5月。受験まで約9ヶ月しかない。周りの受験生は大抵5年頭とかから頑張ってる。
でも子供の僕が必死に説得して塾への入学が決まりる。もちろん思い描いていたような楽しいだけのものではなかった。でも2ヶ月もすると結果が現れてきて、楽しみながら勉強するようになった。

そして当時は裕福だったのもあるけど、母は僕の勉強する姿勢を見てくれてなのか、家庭教師もつけてくれた。合わせたら相当な金額だったと思う。自分の子が同じように要求してきたら10年後の僕にはきっと対応できない。それくらいの金額だと思う。そこを対応してくれた母には本当に感謝です。。。本当に。

————————————————
伸びる伸びる!好きこそもの上手なれ
————————————————

本当に楽しくて、成績が伸びれば伸びるほど楽しくもなっていく好循環。僕が行っていた塾は毎週日曜にテストがあって、毎週の結果がすぐにわかるというシステムでした。それがあってたと思う。毎週のテストの結果が本当に楽しみで、落ち込むこともあるけど結果が残った時の快感は未だに忘れられない。だからこそ勉強をもっと好きになったし、貪欲になっていった。
偏差値で言えば、塾に入るときは45から50くらいかな。でも卒業の頃には60-65くらいまで伸びていた。4教科において塾内(600人規模くらい)で3位を取ったこともあった。

そしていよいよ受験。。。

————————————————
結果は滑り止めのみ、でも納得
————————————————

実名は出しませんが、志望校は3校。
滑り止めが2校で受験。
結果は滑り止めの2校が合格というもの。
一応名誉のために言いますが、滑り止めといってもほどほどに進学校ですよ(笑)

悔しい気持ちもあったけど、身の丈もわかってたし、すごく納得して終われたことは幸せなことだったかなと思います。

そんなこんなで受験という大きなイベントが終わり、多少燃え尽きた感はありましたが、いじめはなくなり、受験も終わり、中学に進むことが楽しみだった。でもいろんな面でその期待は裏切られていくことになる。。。

続きは明日更新予定の中学、高校編で。

#小学校時代
#幼少期
#波乱万丈
#自叙伝




もしよろしければサポートお待ちしています。 すごく励みになります。頂いたサポートは独立資金など夢を実現していく過程で利用させていただきます。応援よろしくお願いいたします。