僕が今できる哲学の記録〜知的ドSと知的ドM〜

「私」が哲学を「今」学ぶ意味は何か。私にはわからない。だから私は文化人類学に逃げたのかもしれない、と思うことがある。と同時に、哲学の自壊しそうな危うさをどこか感じ取り、レヴィ=ストロースのように人類学に希望を見出したのかもしれないとも思う。少なくとも、私は哲学を学ぶ「メリット」を考えたことがない。何か自分に活かせると学問の巨大な川からコップ一杯の水を掬って「これはこれは。」と良し悪しを判断する能力は私にはないし、自分の将来などに役に立てたいという希望から、学びに偏りが出てしまってはダメだと思う。ではメリットではなければ何か。
 一つ考えうるのは、気になったとある事象を深く知りたい、理解したいという知的好奇心を満たすための道具ということである。しかしこれも簡単に反証できそうである。なぜなら、より科学的に一歩一歩、仮固定と解体を繰り返して進んでいく数学や物理学を選ぶ方が、その答えを解き明かす方法としてまだ確からしい感じがするからである。哲学は言語も文化も地理も何もかも違う色々なところで動いているのに対し、数学や物理学は統一された記号、公理、定理を駆使して、着実に歩みを進めている。知的好奇心はその思考、検証によって得られた結果が確実であることを求めるはずだ。結果が出鱈目でも良いのなら、それは「知的」好奇心ではない、と思う。もちろん、のちにその結果が間違いとわかることはあるだろうけれど。その点では、構造人類学は人間に普遍の集団行動であったり、世界中の神話の要素を取り出して、集めて、一つの群や式に落とし込む手法を取り入れており、日本で言うところの「文系」と「理系」の、総合的な学問の営みと言えたのかもしれない。少なくとも今の私はそのような所謂「理系」の学問に興味はあるが、それは哲学や人類学への熱意に遠く及ばない。したがって知的好奇心という観点から私が哲学を学ぶ意味は考えづらい。
 他に考えられる私が哲学を学ぶ意味は、知的好奇心ではなくもっとマゾ的な、「分からなさ」によって自己が打ちのめされることによる興奮と言い換えられるかもしれない。知的好奇心がとある分からないものを克服し、自己のコントロール下に置くというサド的な興奮だとすれば、この「知的奴隷」とでも言えるような、膨大すぎる分からない知そのものに押しつぶされることが、人間の快感に繋がることもあるかもしれない。知れば知るほど、その沼に終わりがないことを知り、その絶望に興奮するのである。
 この知に対するサディスト的、マゾヒスト的な人間の立ち位置はバランスが必要だ。知的ドMが集まったところで、沼にハマってもがくこと自体が目的となり、知が使役されることはない。生み出された知をこき使って、世界に役立てなければならない。(ここで言う「役立てる」はメリットとして言い換えられるだろう。私が最初の段落に取り上げたメリットが極めて個人的な「メリット〈個人〉」だったのに対し、この段落のメリットはもっと普遍的な「メリット〈世界〉」として考えてほしい。)知的ドSだけでもだめだ。知を克服し自分のものとしようにも、その行為には積み重なる膨大な知が必要である。カオスに溺れ、そこから確からしいことを少しづつ見つけるものと、確からしいそれを自分のものとし、利用するもの。その二つの相互作用によって人間は発展してきたのかもしれない。そうとすると、大体の哲学者はドMになりそうだ。アリストテレスとかカントとかはタチもネコもいけるリバタイプなのかもしれない(タチ=攻め、ネコ=受け、リバ=両方いけると言う意味の、BLやゲイの界隈で使われる用語)。プラトンの哲人政治の概念も、どちらか一方だけに傾倒するのではなく、柔軟に両対応できるようにすべきだという、知に対するリバ的立ち位置を取れということなのかもしれない。
今回のnoteの題は『僕が今できる哲学の記録』である。ここまで行き当たりばったりで文章を書いてきたが、これは哲学と言えるのだろうか。千葉雅也さんの『現代思想入門』には、フランス現代思想の作り方が書いてあるので、それに照らし合わせてみよう。内容によると、重要な原則が四つあるという。それは「①他者性の原則」「②超越論性の原則」「③極端化の原則」「④反常識の原則」である。①は既存の理論やシステムにとある「他者」が排除されているとを示すこと。今回では知的好奇心=知的ドSに隠れた、知的奴隷=知的ドMを示す事に当たる。②は排除された他者を網羅する超越論的な前提を用意すること。今まで知的好奇心というものばかりが重要視される世界観であったが、隠れていた知的奴隷を肯定し、その二項対立を想定する。③は名の通り、②で想定された前提を最大まで極端化すること、それにより④で、実は知的好奇心だけが人間世界の様々な進歩や子供から大人への成長に役立つのではなく、知的奴隷との相互作用によってそれが可能となっている、という既存の常識に異論を唱える、反常識による転倒が引き起こされる。
この四原則に沿って説明を行えば、このようになるだろうか。うーん。正直論理には自信がない。支離滅裂な気がする。特に、人間を二種類に分けようとするのは悪手な感じがする。それよりも、人間の知に対する欲求のアプローチ方法が二種類あって、それが内的に相互作用しているという方が、なんとなくしっくりくる。なぜしっくりくるのかは分からない。だが、内容は面白いと思う。荒けづりで、伸びシロたくさんということにしておこう。このnoteは私が今無理なくできる哲学が如何程かということを記録することが目的だから、目的は達成。最後まで読んでくれた方、こんな読みにくい文章に時間を割いてくださいてありがとうございます。最後に、参考にさせていただいた千葉雅也さんの本のamazonのurlを貼っておきます。それではまた。



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