見出し画像

やるかやらないか、或いは

昨年からやりたいことがあって、

先日ようやく、それを公表し、第一歩を踏み出しました。やったね!!(?)
といってもまだまだやらなければいけないことがいっぱいですが、宣言し、立ち上げたということの大きさは自分のなかでも大きいです。

「宣言した」ことにより、責任とかこれからやっていきたいことなどがうわーと次々溢れてきます。
これはどうなっていくんだろう、というより、どうしていこう。
どうしていけば、思っていた通りになるんだろう。

3年ほど、自分でなにかをするために勝手に勉強させてもらっていた人達の言葉を、今やっと「そういうことか」と噛みしめてます。

一番にはなれなかった

でも、1番にはなれませんでした。
わたしが始めたことは「3番煎じ」です。

始めるのが1番じゃないなら、最初に始めただれかがもっとうまくやってくれるのではないか、そう思いました。

でも、何度考えなおしても、やりたいことってそれしかなくて。
また、昨年だれもやったことないことをやる!と思ったときに、「だれもやったことない=誰にも支持されないんじゃないか」
「こんなこと言っても、「はぁ??」って思われるんじゃないか」という恐怖心から動きだせないでいたところを、「先にやってる人がいた」 ことで、すごく救われた部分もあって。
自分の今後の指標もできたし、わたしが考えていたことは間違いじゃなかった!とか、始めていくための段取りなどもとても丁寧に教えて下さり助けていただいた部分も大きく、今では、自分が3番目なことも納得できる。

圧倒的に行動力が足りなかった。メンタル左右されすぎ。

少しずれるけど、、言葉を紡ぐということにおいても、書いてて思ってたんですよね。

「これ、誰かも言ってたよなあ。」
そう思って、書いてても最終的にはどこにも公開することなくパタンとパソコンを閉じることがほとんどだった。2番煎じでは意味がない。同じこと書いたら意味がない。

同じこと言ってること、書いてる人なんて星の数ほどいる

でも最近になって思った  
自分の言葉は自分のもの、自分の思いは自分のもの。じゃないか。
自分の思いは自分が言わなきゃ意味がないんだ。

誰がどの言葉に出会うかなんてわからないけど、
自分が発信した言葉は、自分の周囲の人には必ず伝えることができる

自分が、誰かから意図的に盗んだのではないのなら、
いつかのだれかの思いと同じになったって大丈夫なんだと

その代わり、きちんと最後まで自分のことばで綴ろうと、これも改めて思いました。

言葉は、誰かの心を動かして、元気づけたり、時には落ち込ませたり怒らせたりすることができる。感情を動かすことができる。

自分が好意をもっている人が誰でもない誰かにあてた言葉
わたしたちはそれを受け取ることができる。

これまで以上に言葉を大切にしていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?