言語学版 ガリレオ ch. 2
第2章 決められない言語
今回も 『世にも奇妙なニッポンのお笑い』をとりあげる。
ちなみに、背表紙はこんな ↓ 感じ。
この中で、「日本人は決めたがる」という指摘がある。
日本の「ツッコミ」を「一本締め」と結び付けている。
「実に面白い」視点である。
たしかに、日本では一本締めのように最後をキメて締めくくることが多い。
しかし、日本語は「決められない言語」なのである。
(『日本語の教科書』 畠山雄二 編より)
「燃やした」のに「燃えなかった」のはなぜ?
まるでなぞなぞであるが、日本語は「やった」ことを否定できる「決められない言語」なのである。
逆に、英語は「決められる言語」である。
このように、日本語は「決められない言語」であり、英語は「決められる言語」である。
ちなみに、英語はpersuadeできるが、日本語は「説得」も決められない。(『ケジメのない日本語』 影山太郎 著より)
文化的には日本は一本締めのように決めるのに、日本語は決められない。
つまり、この場合は次の式が成り立つことになる。
文化 ≠ 言語
言語は独自の世界をもっているとするものとしては、「モジュール」仮説がある。(『チョムスキー理論辞典』 原口庄輔・中村捷 編より)
ことばと文化がリンクするのか、しないのか、それが問題だ。
To be linked, or not to be linked, that is the question.
To be continued.
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