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ショートカメリ

 
【歩行】

 カメリは歩くのが好きだ。
 一般的に、カメは歩くことには向いていないと思われているらしい。
 しかしカメリに関して言えば、たしかに速く歩くのは苦手ではあるが、長時間に渡って同じペースを保って歩き続けるのはむしろ得意なのだ。その持続力と安定性は、運動能力の高さを誇るヌートリアンのアンが感心するほどである。
 まあ模造亀っていうのは、見たり聞いたりしたものを甲羅の中に貯め込むようにできてるみたいだから、そういう移動のほうが向いてるのかもね。
 いつかアンがそんなことを言っていた。そして、カメリはそのこともしっかりと憶えている。
 なるほどねえ。もしもしかめよ、かめさんぽ、なあんてな。
 マスターが歌うように言って笑い、それってセクハラよっ、とアンが肉球でマスターの石頭を勢いよく叩いたことも。
 そんなあれこれをきちんと甲羅の中にしまっておけることが嬉しい、とカメリは思う。
 そうすることが好きだと思う。
 嬉しい、というのがどういうことなのか。好き、というのがどういうことなのか。思う、というのがどういうことなのか。
 カメリにはよくわからないし、よくわかっていない、ということもまたわかってはいるのだが、よくわからないままに、そう思う。
 そう思うことにしている。
 そして、そんなふうに材料が不足したままでも仮説を立てたり、あれこれ推論したりできるのが、たぶん模造亀の持っている機能なのだろう、と推論している。
 とくに、目的もなくこうしてただ歩いているとき、カメリはよくそういうことをするのだ。模造亀はそういうふうにできているのか、それともそれは模造亀の中でも自分だけのものなのか。それもわからない。
 前からずっと、わからないままだ。
 わからなくても止まってしまわずに進み続けることができるのが、いちばん不思議なところなんだよな。
 前にマスターが言っていた。
 それがどの程度の事実を含んでいるのか、カメリには判定のしようがないが、それでもこうするのが好きでこうしていると嬉しいからこうしている。すくなくとも、カメリにとっては、そう。
 カメの歩みだな。
 マスターが感心したように言い、そのときアンは、それってセクハラよっ、とは言わなかった。
 そんないろんな場面を、カメリは甲羅の中に貯め込んでいる。
 テレビの中のヒトが何かを好きになるいろんな場面に、それは似ているのではないか、とカメリは思う。どこが似ているのかわからないが、似ていると感じる。
 レプリカメがホンモノのカメに似ている程度には――。
 そんなわけで、なのかどうかはカメリにもわからないが、カメリは今日も散歩をする。
 もしもしかめよ、かめさんぽ。
 マスターの歌声が、甲羅の中でくるくる回る。それにあわせるようにカメリは歩く。
 カメの歩みで。
 日曜日なのだ。
 カフェはお休み。
 ヒトデナシたちもお休み。
 そして今日のカメリには、なんの用事もない。
 目的もなく、ただ歩く。
 ときには立ち止まって、見つめたり触ったり嗅いだりしながら。
 だいたい同じペースで歩く。
 それはなんだか楽しい。
 つまり、そういうあれこれを「楽しい」とカメリは仮定している。
 そして問題がない限り、そのまま運用する。
 そういうこと。
 楽しいから、歩いている。
 もしもしかめよ、と尋ねられたら、カメリはそう答えるだろう。
 楽しいから。
 尋ねられないだろうから答えることもないだろうが。
 そんなカメリの甲羅の中のどこかで、今日もマスターが歌っている。
 もしもしかめよ、かめさんぽ。


【甲羅】

 そんな呼び名の飲み物があることをカメリは初めて知った。
 おれは飲んだことあるよ、とマスター。まあずいぶん昔だけどな。
 へええ、ほんとに飲んだのかい。
 常連のヒトデナシが言った。
 すかっとするんだろ。
 ああ、まあそんなところかな、とマスター。
 すかっとする、って、いったいどうなるんだい。
 うーん、とマスターが腕組みして考え込むように石頭を傾けたから、ヒトデナシたちは注目した。
 うーん。
 マスターはしばらくうなり続けてから答えた。
 ちょっと言葉じゃ説明できないな。
 まあそうだろうね。
 ヒトデナシたちがうなずいた。
 まあそうだろうよ。
 言葉で説明できないものはいろいろあるからな。
 恋とかね、とアンが遠くを見るような目で言った。そして、テレビの中のヒトの口調を真似てこう続ける。
 恋ってどんなものかしら。
 それは飲んだことないなあ、とマスター。
 そんなマスターを無視するようにアンはため息をつき、ヒトデナシたちが、あはは、と形だけで笑い、カメリはカップを洗った。
 こういうカップではない。
 洗いながらカメリは、まだ同じことを考え続けていた。
 さっきテレビドラマに出てきた飲み物の器のことだ。
 テレビの中のヒトたち――恋人たち――がそれを使って飲んでいた。
 こういうのではなくて、と洗っているカップを見ながらカメリは思った。もっと細長くて、それに透明だ。水みたいに透き通っている。それがグラスというものであることをカメリは知っている。
 でもテレビの中以外では見たことはなかった。ノミの市で探したりはしているが、見かけたことはない。
 きっと、いろんな掘り出しもののなかでも、なかなか掘り出せないもののひとつなのだろう。
 このカップのように粘土で形だけは作れたとしても、透き通っている、というそのいちばんの特徴はどうにもならない。
 そして、どうにもならないものは多いのだ。ひとつのグラスから二人で飲むためのあの細長い管とか。いつかどうにかなることなのかどうかもわからない。
 あの飲み物に関しては、グラスや細い管だけでなく、他にもいろんな飲み方があるようだった。真ん中のあたりがくびれた透明の容器の細い口を自分の口でくわえたり、缶を傾けて缶の上に開いた穴から喉に流し込んだり。
 とにかく、いろんなヒトがいろんなことをしながらいろんなところで飲んでいた。走ったり、飛び跳ねたり、手を叩いたり、足を踏み鳴らしたり、笑ったり、他にもなんだかわからないことをしている。
 日光の下で、大勢で。
 そういうふうに飲むものなのだろうか。
 だとしたらこのカフェにはふさわしくないものかもしれない。
 カメリはそう推論する。
 ここは、仕事に出かける前と仕事を終えての帰りに寄るところだから。
 それに、あんなふうに走ったり跳ねたりしながら飲むものなのだとしたら、ここではとても無理だろう。
 カップを洗いながら、それでもカメリは、さっきテレビの中でヒトが発していたいろんな音を自分の中で再生してみる。
 甲羅の中に貯め込んだあのいろんな音。
 ここにはもういないヒトが発する音を。
 甲羅の中で。
 そうだ。それもまた、あの飲み物のことが気になる原因のひとつだろう。
 同じ音なのだ。いや、正確には同じ音ではない。アクセントの位置も違う。でも、よく似ている。かなり似ている、とカメリは思う。
 甲羅。
 ねえ、いったいどういう味がするのさ。
 アンがマスターに尋ねる。
 うーん、なんて言えばいいのかなあ。
 マスターが石頭をつついて言葉を探すようにする。
 なんて言うか、その、つまり、しゃわしゃわするんだよな。
 しゃわしゃわ?
 そう、小さな泡がはじけるんだ。しゃわしゃわ、ってな。
 へえ、はじけるんだ。
 ああ、はじけるんだ。ずっとはじけてる。それでしゃわしゃわするのさ。
 わっかんないなあ。
 アンが首を傾げる。
 うん、こればっかりは、言葉じゃ説明できないな。
 マスターが申し訳なさそうに言った。
 思い出の味、ってところかな。
 思い出かあ、とアン。
 それならやっぱり同じだ、とカメリは思う。
 言葉にはできない記憶。
 思い出の味が詰まったもの。
 たとえば、カメリにとっての甲羅。


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