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社内事情〔30〕~予感~

 
 
 
〔北条目線〕
 

 
 東郷が不審な車を目撃し、片桐課長とおれが直感的に敵の気配を感じた直後。

 おれのところに、例の情報源ハリスから久しぶりにメールが届いた。

 『北条。昨年、頼まれていた件に関連していると思われる新しい情報が入った。大したことではないかも知れないが、念のため伝えておく』

 そう前置きして。

 彼から齎されたその情報は、こちらの予想をほぼ確信に変えるものだった。

 彼の知人が、昨年、目撃した女━リチャードソン氏にそっくりな男と共にいたと思われる━を、再度、空港で目撃した、と言うのだ。

 ただし、今回はその女ひとり。その女が、日本行きの直行便に向かっていた、と。

 「……女ひとりで……?」

 いや、例えその場ではひとりだったとしても、日本で合流する可能性は否定出来ない。目立たないように単独行動にしたとも考えられる。

 ハリスがその女を目撃した日にちを考えれば、ありえないことではない。いや、むしろ、疑惑が確証に変わるに充分だ。

 もちろんおれは、そのことを真っ先に片桐課長に報告した。

 課長はおれの話を聞くと静かに頷き、いつもの調子で「サンキュ」と言い、その後でこう付け足した。

 「北条。そのハリスと言う男が、日本に来る時には教えてくれ。礼を言いたい」

 「……はい。ありがとうございます」

 「もし、また何か気づいたら、どんなことでもいい……教えてくれるように伝えてくれ」

 「了解です」

 欧州部のシマに戻って仕事を再開しようとし、ふと、パソコンのキーボード上で手が止まる。

 思い浮かんだのは、おれがまだ新人だった頃のこと。片桐課長はまだ係長で、藤堂先輩もまだ米州部に在籍していた。

 係長……課長は若手営業にとって憧れの存在であり、そして越える努力をしなければならない最も高い壁でもあった。誰ひとり、全く越えられていないが。

 そんな片桐課長の、誰も見たことがないような姿を、恐らく藤堂先輩にさえ見せたことがないであろう姿を、一度だけ、後にも先にも一度だけ、おれは見てしまったことがある。

 あの時、課長は何かを恐れながら、それ以上に、本気で怒りを迸らせていた。

 その様子は本当に凄まじいものがあり、おれは圧倒されるだけ圧倒され、息をするのも忘れそうなほどだった。

 課長のその怒りが、誰に、何に向けられていたものなのかハッキリとはわからない。わからないが、今回の事件は、あの時のことと関わりがあるんじゃないか、とおれは勝手に思っている。

 そして、おれが目撃した時、実はもうひとり、その現場を見ていた人物がいた。おれとは違う場所から。それは……。

 ━今井先輩。

 おれの位置からは、今井先輩の姿も片桐課長の姿も見えてしまったが、恐らく先輩は、おれが先輩の存在に気づいていたことに気づいていない。つまり、おれが片桐課長を見ていたことにも。

 今井先輩は微動だにせず、おれの視界の中でその光景を眺めていた。いや、片桐課長を見つめていたんだ。例え、無意識に、であろうと。

 当時、先輩に夢中で片想いしていたおれにとって、何となく先輩には好きな男、もしくは忘れられない男がいるんじゃないか、と思っていたおれにとって、そんな風に片桐課長を見つめている姿は複雑で。

 課長と先輩の間に、当時、男女としての接点があったとは思えない。思えないのに、何故か━。

 憧れと嫉妬、他にも色々な感情が混じり合い、絡み合っておれの心臓を鷲掴みにして行く。

 片桐課長なら今井先輩の心を掴める、それだけの男だとわかっていても。

 それでも、おれを見つめて欲しい気持ちを持て余して。

 でも、まだそこまで自信も持てなくて。

 息を潜めて陰から覗いている自分が情けなくて。

 ただ、立ち尽くす、そんな数刻の後。

 片桐課長がこちらに気づく前に、静かに立ち去る先輩の後ろ姿を見送ったのはおれだけ。━だが。

 今井先輩が立っていた場所に出て来た片桐課長は、ふと、何かに気づいたように立ち止まり、直前までの、正に『猛獣』のような表情を一変させた。本当に一瞬にして。不思議そうに辺りを見回す。

 その時の、課長の表情を何と表現すればいいのだろう。

 何かとても懐かしい、大切なものを見たような顔、とでも言えばいいのか。

 もちろん、そこに何か特別なものが置いてあった訳ではない。まして、今井先輩の存在に気づいていたとも思えない。では、一体、何に?

 それは今でもわからないままだ。

 ただ、その時におれは、片桐課長と今井先輩の間には、何か通じるものがあるのでは、と漠然と感じた。たったそれだけのことで。

 それでいて何年経っても、課長も先輩も何の動きも見せない。それが故に、おれは忘れてしまっていた。油断していたんだ。片桐課長が動く訳がない、と。

 自分の予感を信じるべきだった、と今さら思ったところで始まらない。元々、こうなるべき運命だったんだ。

 そう自分に言い聞かせ、今度こそ仕事を再開する。

 だが、まさか、何日も経たないうちに━。

 社を挙げての闘いの最中(さなか)、あの時に見た片桐課長など比ではない姿を目の当たりにすることになるなどと、この時のおれは考えもしなかった。
 
 
 
 
 
~社内事情〔31〕へ~
 
 
 
 
 
 
 
 

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