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〘異聞・アジア〙胡蝶之夢~今は昔

 ほのかに立ち昇る煙。
 頼りなげな揺らめきとは裏腹に、豊かな香りをくゆらす。

 女は片肘をついて横たわり、何を眺めると言うでなく、ただ宵闇を湛えた窓に視線を向けていた。

「今宵は如何いかな夢を見れるであろう……」

 うっとりと、そのまなこに期待の色を浮かべ、ひとりごつ。

 やがて、静寂しじまに心を漂わせる女のまなこに、近づいて来るいくつもの淡い光が映った。

「来たようじゃな……」

 迎え入れんと軋む音をたてた窓の隙間を、右に、左に、ひらひらと舞うぼんやりとした光がすり抜けた。

「ほう、これはまた……此度こたびは良い色ばかりだのう……」

 色とりどりの光を放つ、それは蝶であった。

「さあ、おゆき」

 女が白い指で香爐こうろを示した。言っていることがわかるのか、蝶たちはそれを目がけて飛び込んでゆき、立ち昇る煙に身を晒す。

「ほう……」

 融けゆく刹那、蝶は新たなひかりを浮かび上がらせ、浮かんでは消える色彩に女は感嘆の吐息を洩らした。

「人の見る夢の何と甘美なこと……淡雪の如き儚さを見せるかと思えば、他の介入を許さぬ圧倒的な凶暴さを醸しもする。感情こころが奔流するふくよかな香り……今宵はまた一段と心地好い……」

 美酒に酔いしれたように瞳を潤ませ、悦にる。

「……ん?」

 一羽の蝶が煙と戯れながら留まっていることに気づき、女は首を傾げた。他の蝶に比べて放っている光が強く、余程の者からでた夢といぶかしむ。

「そこな夢……れぞ……?」

 差し伸べた白い手に吸い寄せられ、蝶はたなごころへと舞い降りた。幾多の色が混じり合い、鱗粉のひとつひとつまでが耀いている。

「このような色の夢、わたくしも見たことないが……はて……?」

 少し考えた女がもう片方の手で蝶を覆うと、重ねられた手の間から光が溢れ出した。

あるじの元へ案内あないせよ」

 光の束が帯となって香爐の煙と混じり合い、螺旋を描いて広がった。

 気がつくと、女は宮殿らしき建物の回廊に立っていた。

「……ここは上帝の御座おわす天宮……」

 この光景を知っている者──それは即ち、『人』ではないことを示している。

 女は柱の影から様子を窺った。

 夢の世界に於いて女の存在はうつつではない。そのため、通常は夢の世界の住人に姿を気取られる心配はない。
 だが、夢主が人ではない場合、こちらの世界に干渉する力を持っているはずなどない、とは言い切れなかった。

「……! あれは……!」

 その時、女の目に映ったのは紛れもない己の姿だった。それも幾ばくか昔、まだ少女の頃の自分である。

「これは……これでは、夢主はわたくしの夢を見ていると言うことになる……」

 つぶやいたその時、少年と言っても良い若い男が少女に近づき、挨拶を交わした。少女はすぐに歩を戻したが、男の視線は遠ざかる後ろ姿に一心に注がれていた。夢の中の自分に。

(あれは……あの方は…………)

 その男にも見覚えがあった。であればこそ、それが夢主であるなどとにわかには信じられない。

(あのようにとうとい方の夢が、人の夢と共にわたくしの元に……? しかも、わたくしがいる夢とは……)

 蝶が運んで来た夢に嘘偽りなどあり得ない。男が女の夢を見、その夢の蝶が消えない光を灯していることも間違いなかった。

「……これは、とにかく一度戻らねば……」

 無意識に声に出した時、少女を見送っていた男が女の方を向いた。それは、確かにうつつの自分に向けられた視線だった。
 慌てて戻ろうとする女の方に、男が何か言いながら駆けて来る。

(いけない……!)

 女は急いで夢とうつつはざまに身を退いた。だが、男の指先がきぬの端を捉え、肩からするりとすべり落ちた帔帛ひれが手の中に取り残された。

 女が手の中の蝶にフッと呼吸いきを吹きかけると、ひらひらと香爐へと吸い込まれて行った。こうすることで、夢主が見ていた夢は途切れる。

「……まさか、こちら側のわたくしに触れることが出来るなんて……」

 うつつ帔帛ひれを夢の世界に残して来たことに、女は一抹の不安を覚えていた。とは言え、あの状況では致し方ない。あれ以上、夢の世界に留まることは危険であった。

 不安を押し隠さんと思案しているうちに、気がつくと外は既に仄明るくなり、夢の香りは完全に薄れている。

「それにしても、あの方は確かにお若い時分の……あれは本当にわたくしのことを見ていた夢なのかしら? それとも、たまたまわたくしもその場にある場面だったのかしら?」

 そこまで考えた時、女は不意に思い起こした。

「そう言えば……上帝の御前で幾度かお目にかかったいつかの日……あのようにご挨拶申し上げたことがあったような……?」

 それは既視感や夢と言うより、遠い現実の記憶そのものだった。

(考えても詮なきこと、とは言え……わたくしの帔帛ひれ……困ったことにならねば良いが……)

「あの、公主ひめ様……お目覚めでいらっしゃいますか?」

 ため息をついた時、扉の向こうから誰かが声をかけた。

「お入りなさい」

 時刻的にも雰囲気的にも、朝の支度を整えに来た様子ではない。

「何かあったのですか?」
「申し訳ございません。あの……公主ひめ様にお目通り願いたいと仰る方が……」
「このように早く? 何ぞ急を要することであろうか……どなたです?」
「それが、あの……」

 あまりに言い憚る様子を見、うなずくより他なかった。

「よい。すぐにまいります」

 側付きを下がらせ、女は素早く身支度を整えた。前触さきぶれもなく訪ねて来るくらいなのだから、余程のことかと気もく。

 

「お待たせ致しま……」

 振り返った男を見、女の声は驚きに掻き消えた。つい今しがた、夢の中で自分の帔帛ひれを掴んだ男が目の前に立っているではないか。夢の中より成長した現在いまの姿で。

あがりきみ……」
「おはようございます、婉姈ウァンエン殿」

 女は呼吸いきを整え、一瞬で驚きを打ち消した。

「お早いこと……如何なされたのです?」
「突然の無作法をお許しください。ようやく、待ちかねていた時を迎え、矢も楯も堪らずおとなってしまいました」
「待ちかねていた? 何かあったのですか?」

 男は嬉しげにうなずいた。

婉姈ウァンエン殿。昔、上帝の祝儀でお逢いした折のこと……覚えておいでか?」
「もちろんにございます。けれど、お目にかかったのはその時ばかりでは……」

 それ以前にもそれ以後にも、女は幾度か男と顔を合わせていた。めったにない祝儀だったと言う以外、特別な認識はない。

「はい。しかしながら私にとっては、あの日は特別な日だったのです」
「特別……それは、また、何故なにゆえ……」

 はにかんだように微笑み、男は頬を紅潮させた。

「これを……」

 そう言って手にしていたきぬを差し出し、中を見せる。

「これは……」

 大切そうに包まれていたのは、夢の中に取り零して来た帔帛ひれだった。

「初めてお逢いしたのは、あの時よりずっと以前……まだ我らが幼かった頃です。その時から私は、貴女にお目にかかるのをいつも楽しみにしていました」
「え、あの……それは一体どう言う……」

 女は困惑した。男の言葉は、まるで自分に気がある、と言っているように聞こえる。いや、そうとしか聞こえない。女にとっては寝耳に水だった。

「言葉を交わせる機会をずっと待っておりました。私にとっては巡って来たこの上ない機会……何とか、これを機に面識を深めたいと思うておりましたが、如何せん、私は面白味のない男でして……」

 いずれは仙界を統べようと言う男が恥ずかしそうに下を向いた。伝わって来る噂には好印象こそあれ悪印象はない。だが、裏を返せばそうなるのだろうか、と女は思った。そこまで意気込んでいたにも関わらず、結論から言えば挨拶程度しか交わせなかった、となれば致し方ないのかも知れない。

「意気込んでいた分、落差も大きく、途方に暮れました。どうしたものかと思案していたところ、突然ひとりの女人にょにんが現れたのです。良く知っているのに初めて見る姿のひと……貴女だと言うことだけはひと目でわかったのですが……本当に申し訳ないことをしました」

 男は無我夢中で駆け寄ってしまったこと、帔帛ひれってしまったことを詫びた。
 しどろもどろの説明を聞いた女は、やはり自分の声は聞こえてしまっていたのだと苦笑し、ふと、ひとつの疑問に行き着いた。

「……あの……何故なにゆえ、今、だったのです? あれからもうどれほどの時が流れていることか……」

 その質問に、男は更に恐縮した様子を見せた。

「お恥ずかしながら……」

 その時、状況を全く把握出来なかった男は、帔帛ひれを返す口実におとなうことも考えた、と説明した。だが、同時に状況の説明が出来ないことにも気づいた、とも。
 またしても途方に暮れたものの、ふと『胡蝶之夢』の噂を思い出し、賭けてみることにしたのだと言う。

「ようやく得心したのです。あの時の状況を。そして私はいつの日か、あの日のことを夢に見るのだ、と言うことも……」
「ま……」

 驚きと可笑しさ。はしたなく笑いそうになった口元を袖で隠すも、視線が言葉を探すように右往左往してしまう。

「本来なら、すぐにもお返しにあがるべきでしたが、あの時の私がこの帔帛ひれを持参しても、まだこれは貴女のものではなかったかも知れませぬし、もし貴女のものであったとしても、何故なにゆえ私が持っているのか、と怪しまれることになったでしょう。ならば……」

 そこから男の言葉は力強いものへと変化した。

「……ならば私は、その時を待とうと決めました」

 穏やかな表情ながら、真っ直ぐな眼差しではっきりと言い切る。

「そして、ようやく今日と言う日を迎えました。どれほど待つことになろうと、必ずその時は来るのだと思えば、それすらも楽しく待ち遠しい日々……けれど、それも、もう終わりです」

 女は驚きで言葉も出せず、上気する男の顔をただ見上げた。

『そのようにお待ちになられている間に、わたくしが誰かに嫁ぐ可能性があったことなどお考えにはならなかったのでしょうか』

 そんな考えも脳裏をよぎる。それでも、真剣過ぎる男の表情に意地の悪い言葉は憚られた。

 男がふわりと膝をつき、手を差し出す。

「どうか、その御手で私の手を取ってくださいませぬか」

 隠しきれない戸惑いを袖口に忍ばせ、女は返答の言葉を探した。


 これは瑶池の金母が誕生する少し前の出来事。

 『胡蝶之夢』──その持ち主の魅力に心を奪われた男が、仙界を統べる身でありながら、しばしば人に混じって夢の世界へと旅に出るようになることは、ここだけのお話。

✭✭✭

コチラ の前日譚的な話です。
 
 
 
 
 

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