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社内事情〔37〕~決心2~

 
 
 
※注1)例によって練習中の大人的表現(のつもり)あります
※注2)36話の補足的な位置づけなので、苦手な方は、この回を読まなくても話が繋がるようになっています(はず)
 
 
 
〔片桐目線〕
 

 
 「……痛むか?」

 頬に触れながら訊ねるおれに、里伽子は静かに首を振った。

 小さい傷とは言え、赤くなっている里伽子の頬が目に入るたび、そっと触れるたび、奴らに対する怒りと、何より自分自身への不甲斐なさに、遣る瀬ない思いがこみ上げて来る。

 「……よりによって、顔に傷なんかつけやがって……!」

 もちろん、顔じゃなければいい、なんて意味じゃない。どこであろうと、どんなに小さな傷であろうと赦すことは出来ない。だが、呟いたおれに、俯きながら「ごめんなさい……」と、何故か里伽子が謝る。

 「違う……!きみが悪いわけじゃない。おれが言ってるのは奴らに対して、だ」

 ……そして、自分自身に対して。

 傷と唇にそっと口づけて立ち上がり、窓から外を眺める。

 やはりやらなければならない。そのためには。

 ……心を決めなければ。

 じっと外を見つめるおれに何かを感じたのか、里伽子が傍に来ておれの腕を掴んだ。正面からおれの目を見上げて来る。

 「……どうした?」

 里伽子は息を詰め、瞬きもせずにおれの目を見つめながら小さく首を振った。目を見開き、真っ直ぐにおれの目を見つめ続ける。

 ……怖いのか。無理もない。あんな目に遭えば誰だって。

 いくら平静を装ってはいても、やはり怖いものは怖いだろう。

 「……大丈夫だ。二度と奴らに手出しはさせない」

 腰を抱き寄せながら言うおれに、里伽子は大きく首を振った。

 「ちが……そうじゃありません……そんなんじゃなくて……」

 何か言いたいことがあるのに、うまく言葉に出来ないようだった。里伽子にしては珍しい。

 おれの目を見つめたまま首を振る。

 「あんな人たち、別に怖くありません……!……そうじゃなくて……」

 必死に何かを訴えようとする彼女を見つめながら、おれは心を決めた。確実に。

 この責任は、あの時、非情になり切れなかったおれ自身の甘さにある。社長たちを押し切ってでも出来なかった、このおれの。

 彼女を守るために。

 社を守るために。

 社長や専務と一緒にやらなければならない。

 ……そのためには。

 おれの目を覗き込んでいた里伽子が、その時、さらに大きく頭(かぶり)を振りながら叫ぶように言った。

 「……だめ……だめっ!」

 震える手でおれの腕を強く握る。

 「……どうしたんだ?本当に……」

 珍しく取り乱した里伽子の様子に驚いたおれは、とりあえず落ち着かせようとベッドに座らせた。すると、今まで見たこともないような表情を向けて来る。

 不安そうな、心細そうな、頼りなげな。

 その表情がおれの心を煽る。おれの決意を揺るがせそうになる。

 (心を揺るがせるな)

 自分に言い聞かせながら、そっと里伽子の髪に指を通した。

 「……大丈夫だ」

 なめらかな手触り、しっとりとした重みと感触を確かめながら言ったおれに、里伽子が何か言おうとした時━。

 おれはその唇を塞ぎ、そのまま里伽子を押し倒した。

 その夜の里伽子は、明らかにいつもと違っていた。

 しきりに、おれにしがみついて来る。

 その様子は、必死におれから離れるまい、おれを離すまいとしているかのようで。

 だが、昼間のことに怯えているのだと思っていたおれには、里伽子が何を思っているのか、何を恐れているのか、その本心はわかっていなかった。その時は。

 ただ、ひたすら縋りついて来る里伽子を訝しみながらも、それ以上に、堪らない愛おしさと離れがたさが胸に押し寄せて来る。

 抑え切れない、狂おしい想いをぶつけるように、里伽子の肌を、身体を味わう。唇で、手で、おれの身体中で。

 「……里伽子……」

 おれが耳元で名前を呼ぶたびに、里伽子は身体の芯を震わせながら、さらにしがみついて来た。

 しなやかな脚を持ち上げ、震えるその芯をさらに煽る。背中を反らして逃げようとする腰を、閉じようとする脚を、手と肩で押さえ込み、焦らす。

 「……課長…………か…………」

 やっと絞り出したような微かな声で、里伽子が首を振りながら、懇願するようにおれを呼んだ。しきりに身を捩り、おれから逃れようとする。

 おれは里伽子を押さえ込んだまま唇に口づけた後、ゆっくりと身体を彼女へと沈めた。里伽子の唇から吐息が洩れる。

 瞬間、広がって行くさざ波のような波紋。おれの脳と身体にも痺れるような感覚が走る。

 思えば、ずっと『課長』のままだったな、おれの呼び方。頭の片隅でそんなことを考えながら、心も身体も里伽子へと沈ませて行く。

 ゆっくりと深く、さらに深く沈み込んで、目指す奥の奥まで辿り着いた時、里伽子はもう溶けそうに熱くなっていて。やはり溶けそうになっているおれを包み込んだ。

 おれよりも小さく細い身体と腕、そして指。やわらかくて華奢な、力を入れたら折れてしまうのではないかと思えるその身体で。

 だが、里伽子はおれよりも遥かに広く、深く、あたたかく、しなやかにおれの全てを受け入れ、そして包み込む。

 やがて、里伽子が背中をしならせながらおれの手首の上の辺りを掴んで来た。

 これが、限界の合図。

 いつもそうだった。

 おれはいつも、これを合図に彼女を解き放していた。

 だが、今日は━。

 汗が滲んだ肌に、里伽子の長い髪の毛がまとわり付く。その髪の毛に縛られるように、絡め取られるように、里伽子の身体を強く、きつく抱きしめた。

 呼吸が、鼓動が、体温が、そして重なり合う互いの肌と汗までもが、ひとつに溶け合うほどに。

 浮かそうとする腰を掴み、さらに強く、時に深さを変えながら。

 里伽子が苦しげに喘ぐのを見ても、そのまま放さなかった。

 おれの腕を掴む里伽子の指が、肌に少しずつ食い込んでくるのを感じる。

 それでもおれは、里伽子を煽るだけ煽った。

 脳が焼け爛れ、喉の奥が焦げつきそうな、苦く甘い、堪らなく狂おしい一瞬。

 その共有するひと刻は、互いが同じ気持ちだと信じられる瞬間。互いが、間違いなく互いのものであると感じられる狭間。

 ━と、里伽子の身体中が震え、かつてないほどにおれを締めつける。目眩がしそうなほどに。堪えようとして息が上がる。

 『きみのいない毎日なんて……いや、きみのいない人生なんて、もうおれには考えられない。……だからこそ……!』

 耐えながら、堪えながら、おれは心の中で叫び、最後の最後まで容赦なく里伽子を押し上げた。

 「…………っ…………!」

 限界まで昇りつめ、震えながら大きく仰け反った里伽子が声にならない悲鳴をあげた時━。

 「……里伽子……!」

 大きく弧を描く背中を抱きしめながら、おれはやっと彼女を解き放した。

 きみを抱くのは今日が最後。

 きみに触れるのも今夜が最後だ。

 里伽子の身体中から急激に力が失われていくのを感じる。

 そのしなやかな身体を抱きながら、おれは彼女の微かな声に耳を寄せた。

 「…………………」

 里伽子の顔を見遣る。

 それは━。

 ほとんど聞き取れないような、本当に囁くように小さな声。

 (……行かないで……ひとりで行っちゃだめ……行かないで……)

 耳を疑い、思わず身体中の動きが止まる。そして、続いておれの耳に届いたのは━。

 (……廉さん……)

 初めて聞いた、里伽子がおれの名前を呼ぶ声。

 ……彼女はおれの心の内を見抜いていた。

 さっきの不安気な様子は、彼女が感じていた不安と恐れは、奴らに対するものではなく、おれに対して感じたもの。

 そうだ。彼女は『今井里伽子』だ、と改めて思う。

 里伽子はおれの考えることなど、とっくのとうにお見通しだったのだ。
 
 
 
 
 
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