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社内事情〔43〕~決意~

 
 
 
〔片桐目線〕
 

 
 これは夢なのか?

 里伽子が泣いている。

 見たことがない泣き顔。おれを見上げる目が、睫毛が濡れて光る。黒い瞳が滲み、独特の艶を放つ。物言いたげなその瞳が言葉よりも訴えかけ、おれの心を疼かせる。

 おれがその涙を拭おうと手を伸ばすと、ふいに里伽子の姿が目の前から消えた。

 「里伽子!」

 辺りを見回すが、どこにもその姿はない。

 「里伽子っ!」

 必死で探し回る。息を切らせながらひたすら探していると、遥か向こうに里伽子と思しき人影。

 「……里伽子……!」

 近づこうとすると、その影の傍に別の人影。誰かはわからないが男のようだ。その男が里伽子に向かって手を差し出すと、里伽子がはにかんだような表情を浮かべ、その手を取ろうとする。

 おれは頭の中を真っ白にして叫んだ。必死で走りながら。

 「やめろ!里伽子!行くな!」

 叫んだところで目が覚めた。見覚えのある天井。

 (夢だったのか……)

 まるで雨にでも降られたように、全身が汗にまみれていた。

 ━と。

 「!!!」

 腕の軽さに我に返り、傍らを見遣る。腕の中で眠っていたはずの里伽子の姿がない。まるで、今、見ていた夢のように。

 飛び起きて寝室の扉を開け放つと、キッチンに立っていた里伽子と目が合った。途端にバツの悪さがこみ上げて来る。

 ……何てこった。

 昨夜、身勝手に別れ話を出したのはおれの方なのに。

 いざ、傍らに里伽子の姿がないと気づいただけでこの体たらくだ。

 「おはようございます」

 おれの勢いに動じることもなく、里伽子はいつもと全く同じように挨拶の言葉を発した。

 「ああ……おはよう……サンキュ…………悪い……先にシャワー浴びて来る」

 おれは逃げるようにバスルームに向かうしかない。情けなさすぎて自己嫌悪も極まれり、だ。

 シャワーを浴びながら自覚する。結局、どんなに決心したつもりでいても、おれの心の奥底が認めていないってことだ。里伽子と離れることを。

 こんなにも他人に依存している自分を、かつては想像すらしたことがなかった。

 ━どんな顔で、何を里伽子と話せばいいのか。

 迷いながらリビングに戻ると、すっかり食事の支度をしてくれた里伽子が待ってくれていた。

 互いにほとんど口を開かず黙々と食べる。口を開くと、言葉と一緒に大切なものまでが抜けてしまうかのように。

 食事が済み、リビングのソファに腰かけ、洗い物をしてくれている里伽子の後ろ姿をぼんやり眺める。頭の中を嵐のようにグチャグチャにしながら。

 (……どうすりゃいいんだ)

 やがて、洗い物を終えた里伽子が、持って来たカップのひとつをおれの前に置いた。自分はカップを持ったままおれの隣に腰かける。いつも向かいに座る里伽子にしては珍しい。

 そのままカップの中身を含む里伽子を眺めながら、

 「……サンキュ」

 おれも同じようにひと口。

 時々、里伽子が淹れてくれるミルクティー。初めて飲んだ時も思ったがホッとする旨さ。身体だけではなく、心の中も暖めてくれるかのように。噛み締めるようなひと時、その味と温かさを味わう。

 無言の間の後、里伽子がそっとマグカップをテーブルに置いた。

 「……課長……」

 徐におれに呼びかける。

 「……うん?」

 姿勢は変えないまま、おれは再び里伽子の方に目を向けた。

 考え込むように、半分目を伏せている里伽子。だが、思い定めたように顔を上げ、真っ直ぐにおれを見つめた。その眼差しに心臓を掴まれる。

 「……この間のお話なんですけど……」

 身体中に、そして脳に、掴まれた心臓が握り潰されたかのような衝撃が走った。

 「……あの……まだ、お返事していなかったので……」

 昨夜、里伽子が「話したいことがある」と言っていたのはこのことだったのか。

 おれは返事も出来ないほどに緊張していた。本当におれが緊張するのは里伽子に関連していることだけなのだ、などと脳内で考えているのに声は全く出て来ない。

 「……それに際してお願いしたいことがあるんです」

 (お願い?)

 脳内に疑問が広がった。が、すぐにその『お願い』とやらに思い当たる。

 (……やはり一緒に行くのは無理か……。……そうだろうな。今回のことは置いておいても、里伽子はアジア部の要だ。そうそう簡単には抜けられないだろう……)

 本当に、昨夜の自分のことは棚に上げ、意気消沈している己に呆れる気持ちしか浮かばない。

 (何を期待していたんだ、おれは……)

 里伽子が「信じろ」と、「頼れ」と言ってくれただけで十分過ぎるじゃないか。年に数回は逢えるだろうし、数年、離れて暮らすことくらい何だって言うんだ。

 そんな風に、ひとり落ち着こうと言い聞かせているおれに、里伽子がそのまま言葉を継ぐ。

 「……課長の赴任にご一緒させて戴くに際して……」

 (……え……?)

 脳内を占めていたものが一瞬にして霧散した。代わりにもたげた新たな芽が全てを塗り替えて覆い尽くし、思考回路が真っ白になる。

 (……今、何て……)

 何度考えても、確認しても、答えは同じ。

 (……おれの赴任に一緒に行く……って言ったのか?)

 呆然とした体で里伽子を見つめるおれに、彼女は驚きのひと言を続けた。

 「……社を退職してもいいでしょうか」

 「……え……」

 それ以上の言葉が出て来ない。

 (……退職?……今、休職、じゃなくて、退職って言ったか?里伽子は……)

 しばし、互いに無言の時。

 「……いいも悪いも……むしろ、それはおれの方が訊きたい。ウチの社には、社員同士の帯同に際しては休職、と言うことが認められている。それなのに敢えて退職するって……本当にいいのか?それで……」

 ようやく、おれは自分の思考を言葉として表すことが出来た。だが、困惑を隠し切れるものではない。

 「……課長の許可を戴けるなら……」

 「……いや、許可も何も……逆に、何故、休職ではダメなんだ?」

 「……中途半端に残して行きたくないんです」

 里伽子は即答だった。その答えには躊躇いも何もないことが感じられる。

 「……休職することが、きみにとっては中途半端な状態なのか?」

 頷く里伽子。だが、それよりも何故、おれはこんな質問をしているんだ?里伽子の方から、仕事を辞めてついて来てくれる、と言っているんだぞ?それこそ、おれが一番望んでいたことじゃないのか?

 「……戻る時の保証が出来ません……。私には、その場その場、その時の状況以上のものを背負うのは無理です」

 里伽子がそんなに不器用な性質とは思えないが……おれのために言ってくれているのか?それならば、いくらおれでも無理に仕事を辞めさせるようなことをしたくない。

 「帰国する時に考えればいいことじゃないか?もし、戻れないような状況なら、その時に考えればいいんだし……」

 「……私の考えは逆です」

 「……逆?」

 「……課長とアメリカに行って……どんな風に状況が変わって行くのか全くわかりません。だから、一旦リセットしておきたいんです。そして帰国した時に、自分自身も復帰出来る状況が整っていて、尚且つ、もしも……もしも、ですが、社が私を必要としてくれるなら、それはその時に考えたいと思っています」

 なるほど。確かに里伽子の考え方の方が、社に対する考慮がなされている。期待していたのに戻れない、と言うよりは、ないと考えていた戦力が思いもかけずに舞い戻った、と言う方がいいに決まっている。━だが。

 「……本当にいいのか?」

 「……はい。いえ、あの、もちろん向こうでも一応、仕事を探すつもりではいますので……」

 仕事をするつもりでいるのか?ならば確かに、休職と言う形では無理だが。

 「それなら……いや、どちらにしてもおれの許可など必要ないだろう。むしろ、おれの方が不本意な頼みをしている訳だし……」

 「でも、仕事が見つかる保証はありませんし……そうなったら、私は完全に無職と言う形になってしまいます。ですから、課長にお訊きしてから、と思っていました」

 「……え……」

 もしかして里伽子は、『専業主婦』になることを気に病んでいたのか?自分は外で働かずに生活することを?いや、ちょっと待て。

 「おれは、おれみたいな生活をしている男を、フルで働きながら支えるのは並大抵じゃないと思っている。正直、今の生活形態を何とかしなければ、と思っていたのはおれの方だ。この仕事を続けている限り、これからもおれの生活は変えられないのに、今のままではきみの身体の方がまいってしまう、と。だから、きみが本当に仕事を辞めてもいい、と思ってくれているのなら、ひどい話だが、それこそおれはありがたいとしか言いようがない」

 里伽子はじっとおれの目を見ながら聞いている。しかし、表情から心情が読めず、おれはさらに念を押した。

 「もう一度、聞く。本当に仕事を辞めてしまっていいのか?」

 「私は出来るようにしか出来ないので、身体のことはご心配に及びませんが……申し訳ない言い方をすると、仕事に対する思い入れが特になくて……あの場所に執着や未練はそれほどないんです」

 里伽子が申し訳なさそうに眉毛をハの字にする。どうやら本心のようだ。

 「本当に申し訳ないんですけど、私にとっては、『今、自分の目の前にある状況』と言う認識であって、それ以上でもそれ以下でもなくて……もちろん、この状況に感謝はしているんですけど……」

 聞いてしまえば、どうにも里伽子らしい答えと言う気はして来る。だが、おれとしては、本当に申し訳ない、と思いつつも、ありがたい言葉だった。

 「……すまない……いや、違うな。……ありがとう」

 おれの言葉に微笑む。つられて顔が緩みそうになったおれは、大事なことを思い出し、寝室に行ってサイドボードの引き出しを開けた。

 用済みになるところだった小さな紙袋。

 そっと取り出し、包みを解きながらリビングに戻る。

 「本当なら、タイミングとしてはあの時に渡さなければいけなかったんだろうけど……」

 言い訳しながら里伽子の左手を取り、そのしなやかな薬指に指輪を通した。里伽子が息を飲む。

 「本来なら、こう言う形のものじゃないんだろうけどな」

 よく見かける、立て爪に填め込まれたダイヤでもなく、プラチナでもない。黄色と赤と紫、三色の石があまり出っ張らないように填め込まれた、やわらかい黄味を帯びたゴールドの指輪。ずっと付けていて欲しくて、普段でもそれほど邪魔にならないような形を選んでしまった。おれの中での里伽子のイメージに一番近いものを。

 もし、里伽子が気に入らないようなら、いわゆる『婚約指輪』っぽいものを買い増してもいいと思っていたから。

 じっと指輪を見つめる里伽子。やっぱり気に入らなかったか?急に自信がなくなる。

 「……指輪を両方とも……ずっと付けていて欲しかったんだ……だが、好みじゃなければ……」

 言い訳がましくそこまで言った時、里伽子は大きく頭(かぶり)を振った。そして、そっと指輪に唇で触れる。

 少しして顔を上げると、おれの首に腕を回して来た。里伽子からの珍しいアクションに、ニヤける前に驚きが先に立つ。

 「……ずっと……傍にいてくれ」

 抱きしめながら懇願するおれの耳に、

 「……よろしくお願いします」

 里伽子の小さな小さな声だけが響いた。
 
 
 
 
 
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