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〘異聞・エジプト〙Tetrad〔三夜〕

 
 
 
 いつの間にか静けさが戻っていた。

「オシリス! 何かあったのか!」

 突然、背後から聞こえた声に、振り返りもしなければ狼狽えもしない。

「イシス……?」

 背を向けて立つイシスをいぶかしみながらも足を踏み入れたセトは、その惨状に息を飲んだ。

「……これは……」

 倒れているネフティス、朽ちた植物の残骸、そしてバラバラになって散らばっているオシリス。

「イシス! 何があった!?」

 ゆっくり歩を進める。

「私がオシリスを殺した」

 決意したように顎を反らし、決定的なひと言を告げた。

「……! 何故だ……!」

 思わずイシスの肩を掴む。

 本人からの申告であれ、にわかには信じられなかった。王妃として申し分ない存在であるイシスが、並ぶものなき王オシリスを殺したなどと信じられるはずがない。

「何があったんだ、イシス……!」

 その理由を一番良く知っているのはセトのはずだった。だが、それを口にしてしまえば、セトとオシリスが交わした暗黙の契約を知ってしまったと告白することになる。自分やネフティス、アヌビスのためにセトが甘んじ、隠して来た全てを無駄にしてしまうことは避けたかった。

「……王は……いいえ、オシリスは王としてあるまじき行ないをした。私は王妃として見過ごすことは出来ない」

 イシスは言い切った。肩に置いたセトの手に伝わって来るのは、確固たる意思だけだった。

「……馬鹿な……」

 どんな重罪であろうと、急を要する王妃の判断であろうと、独断で王たる者を処罰、それも処刑したとなればただでは済まない。例え、王妃であろうとも。

(だが……)

 それでも、イシスが真相を話すことはないこと、そう言う女であると、セトは誰よりも知っていた。

 かつてないほど迷っていた。決断との間を行き来しているのがわかる。知らず知らず力がこもり、イシスの肩を強くつかんでいた。

「イシス……ネフティスとアヌビスを連れて城を出ろ」
「セト……!?」

 思案の末に提示されたセトの申し出は、さすがのイシスをも驚かせた。

「おれが王座を奪うためにオシリスを殺した」
「セト!」
「王妃であるお前がオシリスを殺したとなれば、王宮だけでなく国中に不安を招く。民意が迷走してしまう。不信感が募れば、ようやく落ち着いて来た民の生活がまたすさんでしまうだろう」
「でも……」
「おれが王位を手に入れるために起こしたことなら、不満や怒りは生じても疑問はいだかれない」

 イシスは喉の奥が引きるのを感じた。

 セトの言いたいことはわかる。だが、例え正論でも、善か悪かで考えれば間違いなく悪であることは明白で、イシスには受け入れ難かった。

「出来ない!」

 首を縦に振ろうとしないイシスの腕を掴み、正面から見据える。

「聞け、イシス。これはおれたち四柱きょうだい間での極めて内輪の問題だ。そんなことに民を巻き込むべきではない。起きてしまったことは仕方ない。失った時を完全に取り戻すことは出来ない。ならば、今、おれたちがすべきは、民にとって負担の少ない最善の道を選ぶこと……違うか?」

 確かに内輪の問題には違いなかった。だからと言って、罪を免れることとは別問題である。

(己の責任を負わないなど赦されるのか……)

 イシスは葛藤した。その気持ちはセトにも痛いほど伝わって来た。逆の立場なら同じように考えるであろうし、迷いを断ち切ることは容易たやすくない。

「イシス……」

 セトはイシスを抱きしめた。何年、何十年ぶりかの抱擁だった。

「……その代わり、何年後かに解放しに来てくれ。おれを倒し、王座を奪還するために。それまでにおれは、お前が戻った時に納得されるよう、場を用意しておく」

 ドクン。イシスの心の臓が波打つ。

「優先すべきは民の安寧だ」

 そのひと言に、セトの提案を受け入れる腹を決めた。懐かしいぬくもりを抱きしめ、自らの身体に記憶させる。

 名残よりも時を惜しみ、イシスは気絶しているネフティスを抱き上げた。

「必ず戻ります」
「ああ。なるべく早くしろ」

 部屋を出ようとするイシスの背を見ず、セトはつぶやいた。

「アヌビスとネフティスを頼む」

 返事はなくとも、答えはわかっていた。

 再び、静けさを取り戻した室内で、セトはバラバラになって散らばる兄を見下ろした。

「何故、王で在り続けることが……王の仮面を着け続けることが出来なかった……お前ともあろう男が……」

 絞り出すように問う。答えは返って来ないとわかっていても、言わずにはいられなかった。

「お前は、おれとの約束を反故ほごにした」

 セトは目を瞑った。

「……おれも、もう、お前への誓約を守ることはない。今、ここで破棄する」

 まるで止めているかのように静かな呼吸。ふっと呼吸いきを整えた後、何かを持ち上げるように手を動かした。

「……おれは、これまでずっと、イシスの存在に救われて来た。だから、今後、お前がイシスのことで何を言い出そうとも、おれが全身全霊で否定してやる」

 サラサラと言う音がし、セトの足下あしもとから水が湧くように砂が現れた。まるで磁石に引き寄せられる砂鉄のように動く砂が、何かを形作ろうとしている。

「……その身も、イシスとアヌビスに送ってもらうがいい」

 出来上がったのは箱──ひつぎであった。その中にオシリスの遺体を納め、切断された箇所を砂で固めて元の形に整える。

 兄の……兄であった男の顔を見下ろし、しばしの黙祷を捧げたセトは、決意を現すように顔を上げ、声を張った。

たれか在る!」

 足音はすぐに聞こえた。

「如何なされ……」

 駆けつけた男は、オシリスの部屋にセトがいることに当惑した。先刻、イシス王妃から大事な話が終わるまで近づかぬよう申し渡されていたからだ。

「セト様……?」

 セトは振り返らなかった。背を向けたまま、男に命じた。

おもだった者を集めよ」
「は……あの……」
「早くせよ!」
「は、はいぃ!」

 逃げるように走ってゆく男を後目しりめに、セトは並外れた戦神の力を以って柩を奥の壁際に移動させた。

 男が使いに走ってからこと四半刻足らず。

 オシリスの部屋の外には、廊下の彼方まで埋め尽くす勢いで人が集まっていた。宰相であるトートを含め、幾人かの長老筋が室内に足を踏み入れる。

「セト様」
「セト様。皆を集めろとは、一体何事にございますか」

 口々に問う者たちには目もくれず、セトは柩の前に立った。首を傾げる家臣たちの目に、それは巨大な箱にしか映らず、柩としては認識されていない。

みな、良く聞け。つい今しがた、オシリスは死んだ。おれが殺した。今、この時より、おれが王となる。異論ある者は即刻この国より去るがいい!」

 息を呑み込む一瞬の沈黙の後、爆発したようにどよめく。

「馬鹿な! オシリス様が……王が亡くなったなどと!」
「セト様が如何に戦神であろうと、オシリス様を殺すなど不可能だ!」
「そうとも!」
「そもそも、何故オシリス様が殺されねばならぬのです!」

 次第に熱を帯びてゆく申し立ては、簡単には収まりそうになかった。騒ぎを眺めていたセトは、傍に立てかけられた杖を振り上げ、思い切り床を突いた。

 タァーーーンンッ……!

 室内だけでなく、廊下にまでこだます鋭い音に、捲し立てる声が瞬時に止む。恐れを顕にした面持ちで注目する者たちを一瞥すると、セトは柩の上蓋に手を掛けた。

「事もあろうに、オシリスはおれの妻であるネフティスを寝取り、尚且つアヌビスを産ませた。しかも、その不義の子を正統な王妃であるイシスに育てさせるなど……イシスの顔を立てて見ぬふりして来たものを、それも忘れておれを見下し、膝を折れ服従しろとまで言って来た。その上、今後もネフティスを寝所に寄越せとな。これが王たる者の所業と言えようか!」

 殺した理由など何でも良かったのだが、あまりに突拍子のない話では説得力に欠ける。セトは所々に事実を織り交ぜ、もっともらしい口実を作り上げた。

「王がそのような……」
「いや、しかし、ネフティス様とのことは事実にて……」
「アヌビス様も後継者として認められておられぬし……」

 憶測が飛び交う中、ひとりが声を上げた。

「その前に、そもそも、本当にオシリス様は亡くなられたのですか!? 我らはその現場はおろか、亡骸なきがらすら目にしてはおりませぬぞ!」
「……そうか。見たいか。ならば、見せてやろう。お前たちが納得せざるを得ないものをな」

 柩の中からセトが掴み出したものを見、そこにいた全員が戦慄した。

「お、王……!」
「オシリス様……」
「何と言う……」

 髪を鷲掴みにされて晒されたのは、紛れもなくオシリスの首だった。セトが砂で補強しているため、四肢がぎになっているようには見えないが、魂がそこにないことは誰の目にも明らかだった。

「どうだ? 信じたか?」

 誰ひとり答えなかった。答えられなかったと言っていい。ただ、オシリスが殺されたと言う事実に慄くしかなかった。

「お、王妃様……イシス様はどうなされたのです!」

 誰かが口走った。その場にいた全員が我に返り、一斉にセトに視線を注ぐ。

「そ、そうだ! 王妃様がいらっしゃれば……」
「イシスは、ネフティス、アヌビスと共に王都から追放した」

 落胆の翳りが場を覆った。すがるものはないのだと言う現実だけが満ちる。

「何と、王妃様までも……」
「致し方あるまい……オシリス様でさえ、セト様に勝てなかったのだ……」

 王妃が王をも凌ぐ力を持っているなどと、家臣たちが知るはずもない。セトでさえ知らなかったのだ。

「一度だけ機会をやる。おれに従えぬと言う者は早々に消えるがいい。黙って去れば咎めはせぬ。だが、歯向かう者あらば、その者には容赦はせぬ。まあ……」

 誰しもが、もう声すら上げる気力も失いかけたところを見計らった、それはセトの最後通牒だった。
 掌をくうに捧げると、オシリスが収まっている箱──柩の周囲を湧き出した砂が侵食し、一体化してゆく。

「オシリスの成れの果てを見ても尚、逆らう気概があれば、の話だがな」

 セトは酷薄な笑みを浮かべた。

「セト様! オシリス様のご遺体を如何なさるおつもりか!」
「知れたこと。ナイルに打ち棄ててくれる」
「何と! お止めください! そのような……!」

 最後まで言葉にする前に、柩は部屋から姿を消した。あらゆるものを砂に変換し、再び元に戻せるセトは、床や地面を砂に変えながら柩を運ばせた。

明日あすまでに身の処し方を決めよ」

 それだけ言うと、セトはその場を後にした。

 己が取る道を模索する精神的余裕すら失い、ただただ立ち尽くすばかりの者たち。その中でトートだけが、セトを追いかけ静かにその場から離れた。

 太陽神であるラーが後押ししたことにより、セトの正式な即位に大きな混乱は生じなかった。

 もちろん民の驚きと動揺は否めない。オシリス信奉者による不満も見え隠れしてはいたが、国を追われ浪々の身となることを考えれば、受け入れざるを得ないと言ったところであろう。

 どちらにしろオシリスが現世このよにいないことは明白で、頼みの綱の王妃も国外に追放されたとあっては、この国でセトに勝る存在はなかった。加えて、理由はともあれオシリスとイシス二柱ふたりが不在の今、セトが王位につくことを否定する余地がない。

 当のセトであるが、逆にこの日を境に心にもない生き方をいられることになった。

 事の経緯いきさつは、ラーとトートにだけは打ち明けていた。だが、それでセトの負担が軽くなるわけではない。
 『イシスが戻った時に民が歓迎する環境を整える』と言うことは、セトにとっては想像以上に負担が大きかった。

『民を締め付けて不満を持たせつつも、著しい暴力などで決定的な被害をこうむらせてはならない』

 これだけでも十分過ぎるほど暴君の振る舞いに違いない。その辺りの匙加減は、恐らくオシリスならば巧くやれるだろうとも思えるが、本来、セトにとっては苦痛以外の何物でもなかった。
 善悪を心得る者であれば、次第に精神こころがれ、やがては狂ってゆくだろう。

 だが、それは『本来』が前提の話で、今のセトには当てはまらなかった。彼は考え得る限りあらゆる手段を用いて暴君を装い、あらゆる不名誉な呼び名に甘んじた。

 オシリスの完璧な王の仮面よりも見事に、イシスが戻るまでの年月を乗り切った。

 ただ、約束のために。
 
 
 
 
 

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