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〘異聞・エジプト〙Tetrad〔一夜〕

 
 
 
tetradテトラド[ギリシャ語]: 4人組、4つ組、4分子(※英語ではquartetカルテット




 
 エジプトの神々の中にあって、やはり中心的なのは太陽神ラーだろう。

 ラーは様々な神と同一視され、その一柱ひとりとして創造神アトゥムもいる。
 アトゥムはヘリオポリスの九柱神エネアドの始まりとして、原初の水ヌンまたはヘルモポリスの八柱神オグドアドから生まれたと言われ、後に太陽神ラーと同一視された。

 その子どもである大気の神シューと湿気の女神テフヌト。
 シューとテフヌトの子どもである大地の神ゲブと天空の女神ヌト。
 ゲブとヌトの子どもである植物の神オシリス、豊穣の女神イシス、戦争と砂漠の神セト、調和と葬祭の女神ネフティス。

 ラーを含むこの九柱きゅうにんが『ヘリオポリスの九柱神エネアド』である。

 シューとテフヌト、ゲブとヌトが兄妹で夫婦神であるように、オシリスとイシス、セトとネフティスも夫婦神となった。

 人望も能力も申し分ない長子オシリスが王として即位するも、それを妬んだセトは王位を奪うために兄を殺し、挙句に遺体をバラバラにしてナイル川に棄ててしまう。

 何とか遺体を探し出したはイシスは、ネフティスやトート、アヌビスの協力を得てオシリスを復活させた。この時、オシリスの遺体にアヌビスが施した処置は、木乃伊ミイラの始まりと言われている。

 しかし、一度は死んだ身体。生を返すことは出来ない。しかもイシスが魔法で補填ほてんしたとは言え一部が欠損しており、長く地上に留まることも叶わなかった。

 これにより、以後、オシリスは冥界ドゥアトの支配者となった。

 やがてオシリスとイシスの間に産まれた息子ホルスは、セトとの長く激しい戦いを経て王位奪還を果たした。

 ──そう伝えられている。

 
 


 
 オシリスが冥界ドゥアトおもむいて幾度目かのしょくの月。

 イシスは王都への帰還をこの日と決めた。知恵の神であり宰相でもあるトートの力が、この日は弱まると知っていたからである。

 月との賭けに勝ち、月の属性と時の支配権を手に入れたトートは、太陽の支配が及ばない夜の守護者ともされているが、月蝕の夜だけは別だった。

(セトは予想しているはず……恐らく、警護を強めているに違いない。ホルスの力を見定めるために……)

 もし、ホルスが王都入りさえ出来ないようなら、まだ王たる自分が相手をする意味がない──そう考えているとイシスにはわかる。

「ホルス」
「はい、母上」
「そなたはセトに勝てると思う?」

 母の問いかけに、息子は一呼吸の間ののちに答えた。

「勝ちます」
「……そう。では、何のために?」

 ホルスの目に力強い輝きが灯る。かつて、知っていたまなこと良く似ている光だった。

「確かめるために」

 成長を感じさせる力強い声。

 それから数日ののち、イシス一行は王都へと舞い戻った。

 ホルスは潜在的な力が強い上、腕の上達もイシスの予想を遥かに上回っていた。戦神との勝負に於いて、あからさまに不利とならぬよう指南を仰いだ戦いの女神ネイトも舌を巻いた。
 それと比べてしまえば地味ではあるが、アヌビスもかなりの能力を有しており、さすがに血は争えない。

 ふたりの成長もあって、イシスの魔法を使うまでもなく王都への帰還は容易かったが、そのあとの王宮への潜入は慎重に行なった。
 しかし、一旦、入り込んでしまえばこちらのもの。王族しか知らない隠し通路を通り、見つからないように移動するなど造作もなかった。
 如何に久しいとは言え、イシスとネフティスにとっては生まれ育った地であり、勝手知ったる『家』なのである。

 どちらにしろセトには感知されているはずだが、出来るだけ正面からの突破は避けたいのが本音だった。

 もし、これが王宮への潜入でさえなければ、イシスの持つ力のひとつ『空間転移』で一瞬にして移動することも可能だった。しかし、王都、殊に城には強力な防御壁が張られており、如何にイシスと言えども複数人を同時に移動させるのは危険として諦めた。とにかく、セトの元に辿り着けさえすれば良いのである。

「ホルス。左の壁を押しなさい。その向こうが玉座の間のはずよ」
「ここですか?」

 手に力を入れると、まるで水に浮いているように壁が動いた。

「うわ……!」

 追随するように他の壁も動き始め、やがて隙間から光が洩り出し、空間が広がる。

「来たか」

 途端に高座から低く通る声が響いた。

 玉座から見下ろしている鋭い眼差し、何より、燃えるような赤い髪が名乗っている。左右に立っているのは法の女神マアトと宰相トートであろう。

 歩み出たホルスは、座する男を見上げた。

 セトとホルス。

 向き合ったふたりは互いの顔を凝視した。

 セトにとって、ホルスは兄と姉の息子であると同時に、己の地位を脅かそうとする存在でもあった。

 ホルスにとって、セトは戦いを宿命づけられた相手であると同時に、憧れてまない戦神でもあった。

「……お前がホルスか。手加減はせぬ。殺す気でかかって来るがいい。さもなくば、一撃で死ぬことになる」

 言葉など耳に入らぬように、ホルスは男を見つめた。その視線は真っ直ぐで、まなこに一点の曇りも迷いもない。

 『兄殺し』『王位簒奪者さんだつしゃ』『残虐非道』『暴君』そして『悪神』──。

 おおよそ考え付く限りの悪名でうたわれるその男は、だが間違いなく軍神の顔も併せ持っていることをホルスは知っていた。

 それはまだホルスがネイトにすら勝てなかった頃。

 たった一度だけ、セトがいくさに赴く姿を遠目に見たことがあった。砂漠の夕陽に溶け込む赤い髪をなびかせ、風のように駆け抜けてゆく様を。

「あなたと相まみえる日を待ち望んでおりました……叔父上」

 王座のためなどではなく、純粋に立ち合ってみたかった。最強の軍神と。

「…………」

 玉座から立ち上がるセトの流れるような所作は、それだけで見惚れるほどだった。

「参れ」

 短く命じたセトは、視線の先に瞬きひとつイシスを認めた。ホルスの背後に距離を取り、ただ、たたずむ姿を。
 その刹那、ふたりの視線は時が止まったように交わった。

 全てに決着をつける時の訪れ、ここに至るまでの長い道程みちのりが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

 イシスは祈るような気持ちで思い起こした。
 




 

これは兄弟姉妹よつごとして産まれた
四柱神テトラドの物語
 

 
 オシリスとイシス。
 植物を司る王と豊穣を司る王妃が統治する世は歓迎を以て受け入れられた。

 即位と時を同じくして夫婦となったセトとネフティスが現世と冥界を守ることで、四柱よにんを中心とする体制は揺るぎないものとなる。

 オシリスとネフティスの不義、二人の間に生まれたアヌビスの処遇などいくつか起きた問題も、各々の立場をわきまえた振る舞いによって収めていた。

 これは沈黙を貫いたセトもることながら、イシスの功績が大きかった。不義の子であるアヌビスを、養母として受け入れた王妃としての器の大きさがもたらした結果と言える。

 むしろイシスはセトの心情をおもんぱかったが、ネフティスのオシリスへの恋情は周知の事実であり、セトも寛大に見ぬふりしたのだろうと、敢えて追及はしなかった。イシス自身、オシリスに対してきょうだい以上の気持ちはなく、夫婦としての情を求めてもいなかったことも一因ではあったが。

 とは言え、あくまで自分たちきょうだいの中で収められることを看過しただけで、アヌビスのことは別問題である。だが、何度進言しても彼を後継者として受け入れようとしないオシリスに、ついにイシスは痺れを切らせた。

「王……オシリス……これまでに何度も申し上げているはずです。アヌビスを冥界神などに据えてどうなさるおつもりか? 今やあなたの後継者として相応しいのは彼だけなのですよ?」

 イシスの顔にちらりと視線を走らせたものの、オシリスからの返事はない。

「ネフティスを王妃にするなら反対しません」
「それは出来ぬ。王妃の役目を果たせるのはそなただけだ」
「助力は惜しみません。セトには申し訳ないが、ネフティスを王妃とし、アヌビスを……」
「その必要はないと申しておる」

 だが、イシスも今度ばかりは退けぬとばかりに食い下がる。

「何故です」

 にわかにオシリスの目が苛立ち始めた。しかし、それはイシスも同じである。

「アヌビスを後継者としてご指名ください」
「必要ない」
「何故アヌビスではいけないのですか。聡明な子です」
「後継者はそなたの産んだ子でなければならぬ」
「は……?」

 ここに来て初めて、イシスはオシリスの言動に明確な意図を感じた。

「何を今さら……」
「今さらではない。私は初めからそのつもりだ」
「ならば、何故セトとネフティスを軽んじたのです! ネフティスに酔わされたなどと……!」
「軽んじてなどおらぬ」
「いいえ!」

 視線すら合わせようとしない様に、イシスの声調も強くなった。

「共に生い立ち、皆、あなたの治世を支えようとしておりましたものを……!」
「だが、セトにとっても、そなたにとっても、私の存在が一番ではなかろう」
「……? なにを……」

 言葉の真意が理解出来ず、イシスは当惑した。

「……何が言いたいのです?」
「セトもそなたも私を一番に想っておらぬ、と言うことよ」

 イシスの思考が停止した。

(この人は何を言っているの……?)

 二人の間を妙な沈黙が流れた。ほんの数秒であるはずのそれが、まるで無限のようにも感じられる。

「……セトも私も、あなたを兄として敬愛しています。むろん、王としても……何が足りぬと仰るのです……?」

 イシスの問いに、オシリスは初めて顔を向けた。視線の中に、これまで見せたことのない険をたたえている。

「……わからぬか? 聡明なそなたでも……なれば、言おう。そなた、本当はセトと添いたかったのであろう?」
「…………!」

 答えられなかった。決して、知られて困ることではない。事実、王妃になりたかったわけではないのだから。だが、逆に言えば、何故、今ここでそれを追及されなければならないのかが理解出来なかった。

「……あなただって、本当の意味で私を望んだわけではないでしょうに……王妃として考えた時にネフティスよりは多少向いていると、そう思っただけなのでしょう?」
「半分はな」
「半分?」
「そなたの方がネフティスより王妃に向いている……それはその通りだ。あれは王妃とするには心許こころもとない。が、それだけでそなたを選んだわけではない」
「まさか、本当に私を望んでいた、などと仰るおつもりか?」

 喧嘩腰になるつもりはなかったが、つい口調が強くなる。もし、本当にそうだと言うなら、ネフティスに酔わされて不義に及んだなどと通用しない。そもそも、オシリスが酒で酔い潰れるはずなどないし、ましてネフティスに酔わされるなどありえないのだから。

「そうだと言ったら……?」

 まさかの返答に、イシスの頭に血が昇る。だが、心境的には血の気が引くようだった。

 兄弟姉妹きょうだいとして大切に思い、王としての能力を認めても尚、夫に対する愛情とは違う。だが、夫婦としての情ではなくとも、最善だと納得した末の選択──少なくとも、互いの信頼の上に成り立っている関係だと信じていた。

「ならば、何故、ネフティスを受け入れたのです!」

 オシリスがゆっくりと口元に手を運んだ。

「セトへの警告だ」
「警告? 何の警告です? セトがあなたに何をしたと言うのです?」
「そなたと言う存在があるが故に、あれは心尽くす相手を私だけにしようとせぬ」
「……オシリス……?」
「そして、セトがいるから、そなたの心も私にない」
「何を言っているの……」

 今、オシリスが言ったことは単なる個人的な独占欲に過ぎない。そんな程度のことを、王ともあろう男が口にするはずがない──イシスの考える『王』とはそう言う存在だった。

「セトも私も、国のため民のためにあなたの政策を最優先に支えて来た……! それを……!」
「だが、私自身のことなど眼中になかったではないか。そなたたちの方こそ、この私をないがしろにして来たのだ」
「あなたはそれをネフティスの気持ちとすり替えるのですか!」

 オシリスがゆっくりと立ち上がった。刺すような視線を向けるイシスに近づき、正面から見下ろす。

 ふたりが初めて、腹の底を晒して向き合った瞬間だった。
 
 
 
 
 

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