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〘異聞・エジプト〙Tetrad〔二夜〕

 
 
 
「このようなことを、そなたに頼むしかない母を赦せとは言えぬ」
「母上?」

 首を傾げる息子に目を細める。

(この子のためにラー様より授かった力を使い果たそうとも……)

 息子を見つめる母の目には、切なる願いがあふれていた。

「父上を救って差し上げておくれ」

 聞かされ続けた母の言葉。そのほんとうの意味を知ったのは、ずっとのちのことだった。

 
 


 
 オシリスの目は、面白いものでも見ているかのようだった。

「ネフティスは承知の上だ。後は、そなたが子を産めばセトも納得せざるを得ぬ。諦めざるをな。そうしてようやく、そなたもあやつも私だけのものになる」
「何という……」

 あまりの情けなさ、そして憤り。

「セトが……あの戦神がそなただけを心のどころとしてゆく様は見ものだったぞ。そなたのためなら全てを投げ出すこともいとわぬ覚悟だったわ」
「セトに何を言ったの!」

 イシスの柳眉りゅうびが逆立つ。

「その顔よ」

 オシリスが笑んだ。

「感情をみなぎらせたそなたを見たいと思っていたのだ」

 そのひと言でイシスの脳は冷静さを取り戻した。だが、逆に腹の底から湧き立つ感情の温度は急上昇する。

「セトに何をしたの」

 オシリスはやれやれと言うように肩をすくめた。

「ただ、そなたの助力を頼みにしている、と言っただけだ。さすれば、イシスは王妃として安泰だ、とな……」

 それは、王としてのオシリスに心酔している者、女神としてのイシスの力を絶対視している者にとっては、セトに対する激励としか聞こえなかっただろう。

「卑怯な……」

 オシリスが手を伸ばした。後ずさろうとしたイシスの髪一房を手に取る。

「そうせねば、何かあるたびセトは楯突く。そなたはセトの肩を持つ。そなたたちの強い繋がりの前に、私は蚊帳かやの外なのだと思い知らされる。許せるわけがなかろう」

 あまりのことに言葉が出て来なかった。

 セトとの道を諦めたことは事実でも、犠牲になったつもりなどない。王妃になったことを悔やんでもいない。

 ただし、それは、少なくともこんな男のためではなかった。

「不思議か? そうであろうな。そなたは私のことなど何もわかっておらぬ。知ろうともしなかった。大魔女と呼ばれようとも、他の者たちと何ら変わらぬ。私の理想像を勝手に造り上げているだけだ」

 確かにその通りだった。

『聡明な兄』
『公平で理想的な次期王』

 そう思い込んでいたことは。
 しかし、そう見せようとしていたのはオシリスの方である。

「模範的であればあるほど、私はそなたたちから孤立した。誰も気づかなかった……セト以外はな」

 大切な兄であると同時に、どこか得体の知れない違和感を持つ相手でもあったオシリス。それは王たる身には必要な素養なのだと、イシスは信じていた。

「だからこそ、あやつは初めから私と距離を置いていた。そなたのことを案じて、完全に絶つことも出来なかったようだがな」
「…………」

 執着心とも言い換えられるオシリスの意識は、イシスだけではなく、むしろ強くセトに向けられていた。自分に心酔している者──例えばネフティスのように──からは得られない何かを求めて。

 オシリスがセトに対していだく感情の正体はわからない。唯一無二の男兄弟への競争心、嫉妬、恐れ、憎しみなのか、それとも別の感情──例えば恋情なのか。

 いくさを司る神としてたけく勇ましく、何より冷静であらねばならないセトの性分は、オシリスのそれとは乖離かいりしている。それ故の執心とするならば納得は行くが、同時に果てしない虚しさにも行き着く。

(私たちは何のために……)

 唇を噛むイシスに、オシリスは更に言い放った。

「そなたが王妃であることを拒むのなら、セトもネフティスも容赦はせぬ。むろん、そなたが可愛がっているアヌビスもな」
「オシリス……!」
「セトはそなたのために何もかもなげうって私にひざまずいたぞ。それを無下にすると言うなら、好きにするがいい」

 それは、イシスが守って来た心のたがを容易に打ち壊した。だが、せきを切ろうとした力は、不意の物音にがれた。

「ネフティス……!」

 へたり込んでいたのはネフティスだった。扉で身体を支え、兄と姉のやり取りを呆然と見ている。

「お兄様……」
「ネフティス、これは……」
「今の話は本当なの? 王妃にはしてやれないけれど、イシスもセトも私の気持ちを知っている、目をつむると言ってくれた、と……あれは嘘だったの……?」

 答えようとしないオシリスを、ネフティスは尚も問い詰めた。

「イシスが何も言わずにアヌビスの養母になってくれたから、わたくしはお兄様の言葉も本当だと信じたのに……」
「ネフティス……私たちはもちろんあなたの気持ちを……」
「答えて、お兄様」

 ネフティスの目はイシスを映していなかった。これでは黙らざるを得ない。

「お兄様……わたくしを利用しただけなの? アヌビスのことも……?」

 ネフティスがオシリスに近づいた。
 血の気の失せた彫像のように硬い表情。それでも震える手でオシリスの腕を掴み、問い掛ける。

「本当にセトにそんな仕打ちを……?」

 しかし、見下ろすオシリスの目も彫像のようだった。それを目の当たりにしたイシスは、何を訴えたところで彼の心に響くことはないと察した。

「そなたもアヌビスも、私の言う通りにしておれば悪いようにはせぬ」

 ネフティスの瞳が揺れた。言葉の意味がわからぬほど愚かであれたなら、幸せなままでいられたはずである。

「それがお兄様の本心なのですね……」

 ネフティスの瞳から涙がこぼれ落ちる。

「ごめんなさい、イシス……セト……」
「ネフティス……!」

 ネフティスから真っ黒なもやが噴き出した。『死者の息吹き』と呼ばれるそれが、目の前にいるオシリスにまとわりつく。

「ネフティス! やめなさい!」

 諸共に冥界ドゥアトに堕ちようとしていることに気付き、イシスが叫んだ。だが、ネフティスではオシリスを道連れには出来ない。

 オシリスは目を瞑って溜め息をついた。

「……!」

 突如、イシスは地の底から這い上がって来る振動を感じた。

「ああっ!」
「ネフティス!」

 オシリスの足下あしもとから巨大な植物のつるが姿を現し、四肢を絡め取られたネフティスが宙吊りにされた。イシスから届かぬよう、蔓が高度を上げる。

「愚かな……」

 つぶやいたオシリスが指を動かした。ネフティスを捉えた蔓が身体を締め付け、顔が苦痛に歪む。

「ネフティス……! オシリス、やめて!」

 叫ぶイシスを後目しりめに、気を失ったネフティスの身体を貫かんと別の蔓が迫った。

「やめなさい!」

 イシスが叫んだ。

「……!?」

 何の前触れもなくネフティスを捉えていた蔓が断ち切られた。それどころか根元から枯れてゆくものさえあり、蔓から解放されたネフティスが床に滑り落ちる。

(なんだ……? 今の力は……?)

 驚きを隠せないオシリスの傍で、うつむいたイシスの気配がにわかに変化した。

「む……」

 イシスを中心とする螺旋状の風が舞い上がり、間近に立っていたオシリスは離れざるを得なくなった。一旦、元居た場所まで後退する。

「本気でやいばを向けるか?」
「父として兄として、何より王として、あなたは言ってはならないことを口にした。私はもうあなたを信じない。二度と手を取ることもないと知れ」

 言い終わるや否や、イシスの目が光を帯びた。応じるようにオシリスが掌を捧げる。

「やめるなら今のうちぞ」

 イシスは答えた。口ではなく、目で。

 オシリスが肩をすくめた直後、バラバラにされた蔓が次々と再生する。

「イシスを拘束せよ」

 あるじの言葉を受け、蔓が今度はイシスに躍りかかった。

「…………!」

 だが、直後、イシスを拘束せんとした巨大な蔓は一瞬にして切断された。

「こんな手が通じると思うの?」
「そなたこそ、この程度の攻撃を回避したくらいで、私に敵うと思うのか?」

 今度は何も答えないイシスに、オシリスも黙って指を鳴らした。
 すると、先端を失ってのたうち回っていた蔓が三度みたび再生し、他の蔓と縒り合いながら太さと強度を増す。数多あまたの巨大植物で、室内は密林のようになっていた。

「ゆけ」

 更なる攻撃を仕掛けた蔓の束は、イシスに届く前にことごとく細切れになり、床に散らばった。イシスは全てをねつけている。

(ふむ。まさか、イシスがここまで応戦するとは思わなかったが……)

 イシスはちらりと扉の方を見やった。大切な話があると言って人払いはしてあるし、音や地響きが抑制されるよう空間や時間軸を操作している。しかし、このまま騒ぎが続けば誰かしら気づいて駆けつけて来るに違いない。

 一方、らちが明かないと判断したオシリスは、多少怪我を負わせても致し方なしとし、一切の加減を取り払った。

「イシス! これが最後の警告ぞ!」

 植物が首をもたげるように立ち上がり、イシス目掛けて一斉に襲い掛かった。近づく傍から切り裂かれはするものの、数に物を言わせての絶え間ない攻撃。覆い被さるような植物の大群に、イシスの姿が埋もれる。

 冷たい笑みを浮かべたオシリスの瞬きが止まった。

 何が起きたのかわからなかった。見開いた目に映ったのは、植物の隙間からあふれ出した眩い光と、一瞬にして植物が朽ちて散りゆく様だけだった。

(なんだ……?)

 気づくと、自身の視界が回転し、ゆっくりと視点が下がってゆく。

(視界が……?)

 不思議に思った直後、オシリスは『ドサッドサッ』と言う音と共に頭部に衝撃を感じた。極めて低い位置からの傾いた光景に目を疑う。

(なんだ、これは……!)

 明らかに横たわっている目線の光景だったが、身体どころか手足が動く感覚すらなかった。床に転がっていることはわかっても、何故こうなったのかが理解出来ない。

「イシス! 一体、何をした!」

 近づいて来る足音が響き、間近で止まった。首の角度を変えられずに目だけで見上げると、冷たい視線が見下ろしている。

「豊穣を司る……それは逆も可能と言うこと」
「そなたの力が私に及ぶはずなどない……!」
「私の力だけならそうかも知れないわね」
「……どう言うことだ?」

 そもそも、今のオシリスには己がどんな状況なのかすら確かめるすべがない。

「あなたの肉体が枯れることはないでしょう。けど……」

 一度かがんだイシスは、何かを手に取って立ち上がった。

「断つことは出来るのよ」
「…………!」

 目の前に差し出されたのは、見紛うはずもない自分自身の腕だった。他の四肢もバラバラにされたと考えて間違いない。滑らかな断面は物理的な抵抗もなく断たれた証であり、さしものオシリスも動揺する。

「ありえぬ……! そなたにそれ程の力があるなど……私の身体が再生しないなど……!」

 腕を放り投げたイシスは、ゆっくりとした動きでオシリスの顔を覗き込んだ。今度はその首を持ち上げ、目の前に捧げて向き合う。

「オシリス。あなたが言ったのよ。私があなたのことを何も知らない、知ろうともしなかった、と。それはつまり、あなたも私を知らないと言うこと……」
「……どうするつもりだ……!」

 イシスの唇が微かに弧を描いた。

「あなたには冥界ドゥアトに行ってもらう。誰もが認める王の器ですもの。悪の化身アポピスのことも治めてくれるでしょう」
「馬鹿な! 私が消えたら地上は何とする! 第一、みなにどう説明する気だ!?」
「あなたが心配するには及ばない」
「このようなことをして、ただで済むと思っているのか……!」
「それはこちらの台詞セリフだわ。先に仕掛けて来たのはあなたよ」

 イシスが手を首にかざした。意識を冥界ドゥアトに送り込もうとしているのがわかる。

「くっ……!」

 オシリスは歯軋はぎしりした。どう抗っても、深い場所に引きずり込まれてゆく感覚を止めることが出来ない。

『イシス! このままでは済まさぬぞ! いつの日かこの無念は晴らす! 必ずだ!』

 呪いの言葉を吐きながら消えてゆくオシリスの魂を、イシスは無言で見送った。
 
 
 
 
 

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