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中込遊里の日記ナントカ番外編「リヤ王稽古場報告(7)」2019/10/15


2020年2月9日・11日上演の「物狂い音楽劇・リヤ王」に向けて、日々感じたことや思ったことを記そうと思い、書き始める。8回目。

※トップの写真は銕仙会能楽研修所

台風で週一回の稽古になった

週二回の稽古になった、と前回書いたとたん、台風19号がやってきたので稽古が潰れ、週一回に一時的に戻った。

その潰れた日は、本番会場である銕仙会能楽研修所に下見兼リハーサルに行く予定の日。スタッフも予定を合わせて準備していた分バタついた。

しかし、予算変更や台本の遅れがあり、結果、この時期に下見というのは間が悪かったかもしれない。

ところで、台風の日に私は娘とともに実家にいてひたすらに台本を書いたり昼寝したり寝すぎたりしていたのだが、音楽監督兼私の夫である五十部は川のそばの自宅に一人でおり、避難もせずに仕事していたようだ。見たこともない水位の多摩川の写真を「多摩川がザブザブ寄せては返している…海のよう…」などと送ってきて、大丈夫なのかな、避難しなくて、と思った。

後から、あの一帯はすべて避難指示出ていたよ、とたちかわ創造舎の人に聞いた。そうだろうな、と半ば五十部の性格を諦めながら思った。我が家はマンションの1階である。

コンテンポラリー能ってなんだ~扇のような役割を担うもの~

扇、最強説。

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↑観世流(能楽)の扇。日舞のものより大きい。

能楽を始め、落語や日本舞踊では扇を用いる。公式の場に出る時に扇を持つ習慣があったからである。

芸能の中で扇は様々な役割を持つ。“見立て”と呼ぶが、落語では蕎麦をたぐる時のお箸にしたり、狂言では扇を開いてお酒を飲む容器にしたり、千変万化する。

さらには、能楽の地謡では、「これから声を出しますよ」という合図にもなる。扇を床に横たえておき、謡を始める一節前に右手で持ち、床に立てて膝に沿える。

これはものすごく楽しい。軽やかに記号的。想像力を掻き立てられる。しかも、扇の持つデザイン性が良い。開いても閉じても汎用性があり、美しく、機能的。扇、最強説。

しかし、現代演劇を創るにおいては最強ではない説。

扇を持つ習慣がない現代の私たちには特別で専門的なものになってしまう。

扇を使わず、見立てに適したものはないか。しかも、リヤ王の世界から大きく外れないもので。色々と、試してみることにした。

(同時進行)学生演劇祭の稽古とのバランスが良い

「リヤ王」とは別に、12月21日・22日本番の、「八王子学生演劇祭」の稽古が始まっている。私演出の創作劇「百歳まで生きたら(仮)」16歳~21歳の10数名と一緒に上演する。毎週火曜はおよそ12時間稽古である。

10月半ば現在、技術を必要としている「リヤ王」、感性を必要としている八王子学生演劇祭「百歳まで生きたら(仮)」なのだが、それがひっくり返る時期もあるのだろうなと予想する。

とはいえ、劇団に求めること/求められることと、青年たちに求めること/求められることは結構違う。この両者を渡り歩くのが居心地よい。

どう違うのだろう、と考えて、一番は、自分の内側を研究するか、歴史や他者を研究するか、だと思い当たる。前者が学生演劇祭。後者がリヤ王。

研究する過程はさておき、研究結果であるところの上演は、どちらかに偏らず味わい深いものとしよう。


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