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短編小説「ホワイトチョコレート」

「どうして?」
谷中謙一は目の前で倒れている女性を見つめて、そう呟いた。
どこかで見たことがあるような気もするが、誰なのか思い出せない。
謙一は周囲の人に介抱されている女性をただただ見つめることしか出来なかった。しばらくすると誰かが呼んでくれたらしい救急車が到着して、その女性は運ばれていった。
謙一はその後すぐ到着した警察に事情を聞かれることになった。

今、謙一は刺される所だったのだ。そう理解するのに、かなり時間を費やした。まさか自分が。そう思うばかりで、現実を到底受け入れられなかった。

謙一は昔から何でも出来るタイプで、妬まれることが多かった。
ただ成長するにつれて、自分と同じようなタイプばかりとつるむようになり、妬まれることはなくなっていった。
と、思っていたのは謙一だけだったようだ。

謙一の母親は昔、女優だったらしい。
そのことは家族以外には言っていないようだったが、同級生の間で謙一の母親が美人すぎるという話はすぐに広まっていった。
そんな母親に似たようで、謙一は目鼻立ちがくっきりとした顔に成長した。
それに加えて、小学生の間は、父親の仕事の都合で海外にいたこともあったせいか、帰国子女で周りとは違った雰囲気を纏っていて、子供の頃からかなりモテた。
謙一はその頃バスケットボールに夢中で恋愛に興味が無かったので、その手の話はスルーしていたのが余計に周りの反感をかっていたらしい。謙一が気づいた頃には、友人と呼べる人数はかなり少なくなっていた。
でも謙一はそれで良かった。
自分のことを理解してくれる少数の友人がいるだけで、謙一には心の拠り所になっていた。

謙一の順風満帆な人生は続いた。
大学では法律を学び、大学を卒業した後見事弁護士になった謙一は、エリート街道真っしぐらな人生を歩んでいた。

今日も取引先と会い、商談をまとめて、謙一はかなり上機嫌だった。このまま家の近くのバーで彼女と食事しようと考えて、駅の改札の外で、彼女にメッセージを送っていた。
彼女にメッセージを送り終え、今からバーに向かおうと歩き出した途端、誰かに突進され、謙一は道端に倒れた。一瞬何が起きたか分からなかったが、顔を上げると謙一の上に女性が倒れ込んでおり、その女性の背中にナイフが刺さっていた。
「え?」
謙一が状況を飲み込めずににいると、黒いフードを被った男性と目が合った。それは、同じ会社の田井中だった。血走った目をした田井中は「くそっ。」とだけ呟くと闇の中に逃げていった。近くで一部始終を見ていた女性があげた悲鳴を聞いて、謙一は現実を理解した。
今、謙一は田井中に刺されるところで、そのナイフを何故かこの女性が代わりに受けたのだと。
動けないでいる謙一を他所に野次馬が集まってきて、救急車や警察を呼んだり、女性の手当をしてくれたおかげで、謙一はやっと女性の顔を見る余裕が出来た。
どこかで見たことがある、ただそれだけだった。確実に言えることは、何故この女性が自分の盾になってナイフを受けたのかがさっぱり分からなかった。

警察の事情聴取が終わった頃にはすっかり日が変わっていた。
事情聴取の途中で警察官から、女性には意識があり、大事には至らなかったことを聞いて、謙一は安堵のため息をついた。
今すぐにでも女性が運ばれた病院へと向かいたかったが、もう病院の受付時間が終わっていて、謙一は明日有給を取って病院へ向かうことに決めた。自分が刺されていたかもしれなかったのに、明日仕事をする気にはなれなかったし、そもそも、女性がなぜ自分の代わりにナイフを受けたのかが気になって仕方がなかった。

警察署を出て携帯を見ると、彼女から鬼のように着信履歴が入っていた。
この怒涛の出来事を話す元気もなく、謙一は「明日訳は話す。今日はほんとごめん。」とだけ送り、家路についた。

翌日、謙一は有給を申請し、病院へと赴いた。
女性の名前は昨日思い出していた。
高校二年生の時、同じクラスだった、伊東令美だ。令美は真面目な印象で、謙一はあまり話した記憶が無かった。ただ、バレンタインデーに一度だけチョコレートを貰ったことを思い出した。

謙一が病室のドアをそっと開けると、窓の外を見ていた令美がドアの方を振り返った。謙一が何かを言おうとするより前に令美が「ごめんなさい。」と言った。
「なんで伊東さんが謝るの?謝るのはこっちなのに。」
謙一は令美のベットの近くにあった椅子に座り、令美の言葉を待った。
「だって、もしもあのまま死んでたら最悪だったでしょ?自分のせいで人が死んだなんて、谷中くんに思わせたくなかった。」
目に涙を溜めて、令美は謙一を見つめた。
「谷中くんは知らなかったと思うけど、実は昔谷中くんに救われたの。その時に、いつか谷中くんに恩返しするって決めてた。それこそ、その為なら死んでもいいと思ってた。でも、実際にナイフで刺されて倒れた時に、谷中くんの心配そうな顔を見て、私は間違ってたって思った。代わりに死んでもいいなんて馬鹿げた考えだって。危うく谷中くんの心に傷を負わせる所だった。」
「なんで?恩返しだなんて、申し訳ないけど、俺は伊東に何かしてあげた覚えはないけど。」
困惑の表情を浮かべた謙一を見て、令美は少し笑った。
「そうだよね。突然すぎて、びっくりするよね。」
令美は窓の外のどこか遠くを見つめて、謙一との思い出を話し始めた。

「私の親は厳しくて、特に勉強に煩かった。高2の頃は毎日勉強のことで喧嘩してた。」
「伊東が親と喧嘩してたなんて、意外だな。」
「そうだよね。あの時の私、真面目を絵に描いたような生徒たったもん。生徒会に入ってたし。でも本当はそれが窮屈だったの。だから偶に、図書室で勉強してるフリして、音楽室でサボってたの。音楽室ってどこにあったか覚えてる?」
「音楽室?確か西棟の3階の1番端だったかな。」
「そう。音楽室で偶にピアノを弾いたりしてたんだけど、音楽室の窓からは体育館が見えたの。谷中くん、偶に体育館の裏でサボってたでしょう。」
子供のようないたずらな笑みを浮かべて、令美は謙一にまっすぐな瞳を向けた。

謙一は思い出した。
高校生の頃、勉強が出来た謙一は学校の授業が退屈で偶に抜け出していた。初めは怒っていた教師も、テストの点が良い謙一には次第に何も言わなくなった。授業をサボって体育館の裏でバスケをしたり寝ていたりと、今思えばかなり素行不良な生徒だったと思う。
「そんなこともあったかな。」
謙一は、自分では黒歴史と思っている出来事を覚えている人がいることに、唐突に恥ずかしくなった。
「サボってる谷中くんが、とても自由に見えたんだよね。その頃の私は学校に行って真面目に勉強することが絶対的なことだったから、カルチャーショックを受けたというか。こんなふうに生きてもいいんだなって、良い意味で驚いた。谷中くんの自由な姿を見て、私は肩の荷が降りたし、窮屈なだけだった人生から解放されたの。だから、私にとって谷中くんは恩人みたいな人だった。その日からずっと。何かキツいことがある度に、あの頃の谷中くんの姿を思い出して、もっと自由に生きてもいいんだって自分に言い聞かせてた。」
自分のことをそういう風に見てた人がいたことに謙一は驚いた。
「そうだったんだな。」
なんとなく気恥ずかしくなって、謙一は窓の外に目を背けた。
その視線に気づいてか、気づかないでか、令美は続きを話した。

「だから最近、この街に引っ越してきて谷中くんを見かけたときはとても驚いた。谷中くん全く変わってなかったから。」
「変わってないって言われるのは複雑だな。」
「もちろん、良い意味で!」
「谷中くん知らなかったと思うけど、結構帰りの電車が同じだったんだよね。いつも話しかけようか迷って、話しかけなかった。でもある時、私と同じように谷中くんを見つめている人がいることに気がついた。それが田井中君だった。」
「え?伊東さんも田井中のことを知っていたのか?」
田井中は謙一の職場の同僚だったので、まさか令美が田井中と知り合いだとは思ってもおらず、謙一は驚いた。
「うん。バイト先が一緒だったんだよね。田井中くんあの頃からかなり嫉妬深い人で有名だった。大学は違ったんだけど、田井中くんと同じ大学の人から色々と話も聞いてた。バイト先に来たこともあって顔は知ってたの。田井中くん、大学生の頃、友達の1人に執着して、ほとんどストーカーみたいになってたんだって。飲み会の席で、その人と似てるって言われてから、何かにつけてその人と比べて嫉妬してたらしい。最終的に、卒業後の進路が分かれて、その2人の間のトラブルはそこで終わったみたいだけど、大学生の間は、いつか事件を起こすんじゃないかって噂になってた。そんな人が、谷中くんの後をつけていたから、どうしても気になって。私、ここ最近は毎日田井中くんを尾行してたんだ。」
「尾行?」
「そう。尾行って難しいんだね。周囲の人に怪しまれて通報されるといけないから、上手く尾行するのが大変だった。」
学生時代は大人しい印象だった令美が、尾行というアグレッシブなことをしている姿がどうにも想像出来なくて、謙一は笑いそうになるのを堪えた。
「そして、尾行していく内に、田井中くんの表情がどんどん思い詰めたようになっていった。危ない予感がして、田井中くんに話しかけようと思ったの。そしたら田井中くん、右手にナイフを持っているのが見えて。咄嗟のことで、私どうしたら良いか分からなくて、谷中くんの前に飛び出すことしか思いつかなかった。」
「俺は、田井中に執着されていたなんて、全く気がついていなかったよ。会社の同僚だけど、部署は違うし、話したこともほとんどない。もし、伊東さんが庇ってくれてなかったら、俺は死んでたかもな。でも、ああいうのはもう駄目だ。人の身代わりに死ぬなんて誰の為にもならない。」
「うん、そうだよね。ごめんね。谷中くんならそういうと思ってた。」
「いや、違うんだ。俺は伊東さんにお礼を言わないといけない立場なのに。でも、俺は伊東さんに庇ってもらえるような人間じゃないから。」

謙一は、今までの人生を思い返してみて、自分がどこか人を見下してしまっていたことに気がついた。それで、田井中にも恨まれてしまったのだろうことも。田井中は謙一と同じ年だが、仕事の評価が悪く、人間としての魅力も正直自分のほうが上だと思っていた。いや、田井中だけではなく、謙一は全ての人間より自分が秀でていると信じていた。昔の彼女にも、「謙一って、自分が1番だと思っているでしょ?」と言われたことがあるのを思い出した。
過去を振り返って反省し始めた謙一を見て、令美が、「谷中くんらしくないよ。」と言った。
「俺らしい、ってどんな?」
「いつも自信満々で、何でも出来て、自由で飄々としてる。」
そうでしょ?と言わんばかりの令美の表情を見て、謙一は笑った。
「あははは。伊東さんって面白いんだな。」
「え?どうして?私は何も面白いこと言ってないけど。」
困惑する令美の瞳を真っ直ぐ見つめて、謙一は
「本当に有難う。」
と伝えた。
「今回のことは、神様からのお告げだったんだと思う。お前調子に乗るなよ、っていう。それに伊東さんを巻き込んでしまって本当にごめん。」
「謝らないで。私が勝手に飛び出たんだから。」
「いや、俺が普段から人に恨まれるような態度を取ってたからいけないんだ。」
謙一は、鞄からあるものを取り出した。
「こんなんで、お詫びになるか分からないんだけど。」
令美に渡すと、令美は不思議そうな顔をして袋を開けた。中身はホワイトチョコレートのお菓子だ。
「伊東さん、高校3年生の時のバレンタインデーに、ホワイトチョコレートをくれたでしょ。そのお返し。めちゃくちゃ遅くなってごめん。」
「覚えててくれたんだ。」
「高校3年生のバレンタインデーの時、たくさんチョコとかお菓子をもらったけど、ホワイトチョコレートだったのは伊東さんだけだった。本当はホワイトデーに渡そうと思ってたんだけど、貰った数が多すぎて、このままじゃ破産すると思って誰にも返せなかったんだ。その結果、女子に随分嫌われたけど。」
「谷中くんらしいね。チョコ有難う。」
その後、しばらく2人で昔話に花を咲かせてから、謙一は令美の病室を後にした。

後日、警察から聞いた話によると、田井中は同い年で出世頭の謙一と、ことあるごとに比較されて、上司や同僚から貶されていたらしい。完全な逆恨みだが、謙一は自分にも非があったことを反省した。

謙一は会社を辞めることにした。田井中が事件を起こしたことが社内で話題になっていたが、そのことだけが原因ではなかった。ナイフで刺されかけるという急死に一生を得た経験から、謙一はもっと自由に生きたいと思った。会社を辞めることを伝えたら、彼女にはフラれたし、上司には随分引き留められた。でも、謙一には何も後悔は無かった。寧ろ清々しい気持ちで出発の日を迎えた。謙一は自分のことを誰も知らない土地で新しい人生を始めることにした。

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