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荘子と臨済

『荘子』は古今東西の思想の中で最もスケールの大きなものです。そのスケールは桁違いであり、あなたの小さな思考や不自由さを打ち破る力があります。

北の彼方、暗い海に魚がいる、その名を鯤(はらご)と言う。鯤の大きさのほどは、何千里(一里は約四〇〇メートル)あるのか計り知ることができない。やがて変身して鳥となり、その名を鵬(おおとり)と言う。鵬の背平は、何千里とも計り知ることができないほどだ。一度奮い立って飛び上がると、広げた翼は天空深く垂れこめた雲のよう。この鳥が、海のうねり初める頃、南の彼方、暗い海に渡っていこうとする。南の暗い海とは、天の果ての池である。  

斉諧という人は、不可思議に通じた者であるが、彼も次のように言っている。「鵬が南の暗い海に渡っていくありさまは、三千里(約一二〇〇キロメートル)に及ぶ海面を激しく羽撃ち、つむじ風を羽ばたき起こして九万里(約三万六五〇〇キロメートル)の高みに舞い上がり、ここを去って六ヵ月飛び続け、そうして始めて一息つくのである。」
『荘子』「逍遥遊」

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世界には数多くの哲学、思想、宗教がありますが、その中でも別格なのが『荘子』と『臨済録』です。どちらも理屈を超えた世界に導いてくれます。

荘子と臨済は、倫理、道徳、常識的な発想から完全に解放されています。彼らは最高の自由人です。

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人間の存在には道徳や善悪が刻み込まれています。古代の神話から現代のアニメに至るまで、道徳を抜きにした物語は存在しません。

道徳的な発想や善悪の判断から解放された人は、人を超えた存在である「超人」と呼ぶに相応しい存在です。道徳から自由だった臨済や荘子は超人でした。

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荘子よりも孔子の方が人気がありますが、それは何故でしょうか?それは道徳に関心のある人が圧倒的に多いからです。孔子の『論語』には人間社会で役立つ教えがたくさんありますが、荘子の思想は社会では役に立ちません。道徳とは社会で役立つ思想のことです。荘子の意識は社会ではなく個人の自由に向いています。

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社会や人に対して「怒り」を持つ人は、道徳家です。正義感から生じる「怒り」は、道徳家の特徴です。しかし、荘子や臨済は善悪の域を超えているため、「怒り」を抱きません。

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夢と現実の違い、幻想と現実の違い、リアリティの本質について、荘子は「胡蝶の夢」を通じて難問を提示しています。

かつて荘周(本書の作者。姓は荘、名は周)は、夢の中で胡蝶となった。ひらひらと舞う胡蝶であった。己の心にぴたりと適うのに満足しきって、荘周であることを忘れていた。ふっと目が覚めると、きょろきょろと見回す荘周である。荘周が夢見て胡蝶となったのか、それとも胡蝶が夢見て荘周となったのか、真実のほどは分からない。だからと言って、荘周と胡蝶は同じ物ではない、両者の間にはきっと違いがある。物化(ある物が他の物へと転生すること)とは、これを言うのである。
『荘子』「斉物論」

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この世界は「幻想の世界」です。映画『マトリックス』のような世界であり、完璧なメタバースのようなものです。また、映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』のように本当の自分を忘れ、ゲームの主人公になってしまう「完全没入型ゲーム」のようなものです。『臨済録』には、その「幻想の世界」から抜け出すヒントが記されています。

諸君、勘ちがいしてはいけない。世間のものも超世間のものも、すべて実体はなく、また生起するはずのものでもない。ただ仮の名があるだけだ。しかもその仮の名も空である。ところが君たちはひたすらその無意味な空名を実在と思いこむ。

もしお前が一切のものは生起することなく、心も幻のように空であり、この世界には塵ひとかけらのものもなく、どこもかしこも清浄であると悟ったなら、それが仏である。

法性の仏身とか、法性の仏国土というのも、それは明らかに仮に措定された理念であり、それに依拠した世界に過ぎないのだ。

諸君、真の仏に形はなく、真の法に相(すがた)はない。しかるに君たちはひたすらまぼろしのようなものについて、あれこれと思い描いている。だから、たとえ求め得たとしても、そんなものは狐狸の変化(へんげ)のようなもので、断じて真の仏ではない。そんなのは外道の見方だ。

改めてお前たちに言おう。本来、仏もなく法もなく、修行すべきものも悟るべきものもないのだ。それなのに、ひたすら脇みちの方へ一体なにを求めようとするのだ。
『臨済録』

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仏教では「世界は幻想である」と説きます(色即是空)。世界の幻想性を悟ることで、恐れや不安、苦しみから解放され、自由になります。

わしのところには、人に与えるような法はなにもない。ただ修行者の病を治し、束縛を解いてやるだけだ。さあ、諸方の修行者たちよ、ひとつ何物にも依存せずに出て来い。

今日、仏法を修行する者は、なによりも先ず正しい見地をつかむことが肝要である。もし正しい見地をつかんだならば、生死につけこまれることもなく、死ぬも生きるも自在である。至高の境地を得ようとしなくても、それは向こうからやって来る。
『臨済録』

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他者から認められる(お墨付きをもらう)必要はありません。本来の自己である「主人公」を見い出し、人生という映画の主人公として生きることが重要です。全ての他者は脇役であり、世界も映画の舞台でありセットに過ぎません。 

諸君、おいそれと諸方の師家からお墨付きをもらって、おれは禅が分かった、道が分かったなどと言ってはならぬぞ。その弁舌が滝のように滔々たるものでも、全く地獄行きの業作りだ。

諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。

諸君、時のたつのは惜しい。それだのに、君たちはわき道にそれてせかせかと、それ禅だそれ仏道だと、記号や言葉を目当てにし、仏を求め祖師を求め、〔いわゆる〕善知識を求めて臆測を加えようとする。間違ってはいけないぞ、諸君。君たちにはちゃんとひとりの主人公がある。このうえ何を求めようというのだ。
『臨済録』

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